日本カリー史概観
歴史の教科書に出てこない『日本の洋食文化の近代史』
幕末












 日本人が初めて"カレー"に出合ったのは1863(文久3)年のこと。尊皇攘夷の混乱の中、幕府の遣欧使節一行34名が、フランスの砲艦モンジュール号でヨーロッパに出帆した。当時、長州藩が下関で外国艦を砲撃したり、英国艦隊が鹿児島を砲撃するなどの事態が重なり収拾のために、フランスのナポレオン三世の助力を請うための派遣でだった。
 途中、フランスの郵船に乗りかえた一行は、乗り合わせたインド人達が夕日に向かって三度礼をしてから食事するのを見たという。随行した三宅秀清の日誌に、「飯の上ヘ唐辛子細味に致し、芋のドロドロのような物をかけ、これを手にて掻きまわして手づかみで食す。至って汚なき人物の物なり」という記述が残っている。どうやらカリーライスらしい。

維新から明治時代
























 明治維新で横浜が開港し、修好国の商人達が館を構え始める。召使として雇われた者や出入りの日本人を通して、他の西洋料理と共にカレーが日本人に伝わっていった。対英、対米が主であったので、日本に伝わったカレーはイギリス風カレーであった。

 我が国で初めてカリーを紹介した文献は、明治5年に書かれた「西洋料理通」、「西洋料理指南」である。この文献は、同年、肉食解禁という明治政府の政策を見越したもので、肉を食べることが文明開化に通ずると思っていた最先端の人々に支持され、翌明治6年頃には各地に知れ渡ったという。
 その中で紹介されたレシピは、カエルの肉と長ネギなどを使い、簡素なカリーパウダーによるものだった。まだ、我が国にタマネギが紹介されたばかりで、ジャガイモも量産化されてなく、牛肉の生産や流通も少なかった時代だった。

 しかし、食文化の革新に旺盛な料理家が、各地で「カリー」という食べ物を研究し、明治10年、ついに風月堂のメニューに登場するのである。

 明治30年代にはカレーが洋食屋に浸透する。最も早く普及した西洋的料理で、普及の原因は@ご飯とのセットであったことA作り方が簡単B日本人の嗜好に合った――と考えられている。

大正時代から
昭和初期

 大正から昭和初期には日本カレー産業の両雄であるハウスとヱスビーの前身である「薬種問屋浦上靖介商店」と「日賀志屋」が創設。
 同時期、新宿中村屋と資生堂パーラーなどが発案した「高級レストランカレー」と「別盛りの薬味・しょうが・福神漬・らっきょう等」が大人気となる。

戦時中

 戦時中は食糧統制のためカレーの製造・販売中止になったが、軍用食(主に西洋スタイルの食文化であった海軍)のためのカレー粉だけは細々と製造をつづけた。

 敗戦後、数年で即席カレーが復活。昭和30年代中頃になるとハウスが固形ルーを開発、以後主流となり各社がシェア戦争を展開する。

 大塚食品がレトルトカレーで参戦したのは昭和40年代中頃で、以後、各社の開発競争が熾烈なものになっていく。

昭和30年代
昭和40〜50年代
昭和から平成へ


 昭和60年代に消費のピークになり、成熟期を迎える。バブル期にはエスニック料理がブームとなって、インド、タイなどの本場のカリーが普及、この影響が本格的なものから日本独特のメニューまで多様な進化をもたらす。


あと9年で日本人が
カリーと出会って
150年



 約一世紀半の時間を遡り、如何にして我が国独特の「日本カレー」が育ってきたかを概観したが、日本人の「文化加工能力」には驚くものがあり、「国民食」とまで呼ばれるのが良く理解できる。
 今日の「日本カレー文化」は偉大なものなのである。