州庵の小言甘辛放談



◆2004/04/29◆ 3年以上も取材している「信州上田柳町のにぎわい再生まちおこし」
 今月の3日の日記に書いた天然酵母パン店Rが、信州上田(「信州上田」は10年以上前から、観光や工芸・物産品のブランドとして全国で使っているらしい)の柳町にプレ・オープンした。
 少々、長くなるが、何故、私が3年以上も柳町を取材しているかを書きたい。実は、街並みと古民家再生を著書にするため、長野市のフリーライター・北沢房子氏とともにスタートしたのだ。数年前から古民家再生が流行り始めているが、バブル崩壊以降、古民家が破壊され駐車場と化し、街並みが危機に晒されている。全国で街並みを保存する活動が始まり何年も経つが、住民主体のものや公共事業、協働のプロジェクトなど、いろいろなタイプがありマスコミを通じて紹介される情報は、表層ばかりであまり詳しくないのである。そこで、まちおこしや古民家再生のプロデュース経験を活かし、実際に進行しているルポを住民の視点から取材・出版し、全国で活動している街並み再生に関わる方々の参考書にならないか企画したのだ。東京と地元の出版社2社に企画書を提出したが、ちょうどその頃、KURAの創刊という連絡があり、I編集長がアトリエに訪れた。類似した企画を検討しているとのことで、こちらの意図を理解され、企画・真田創造工房というクレジット付きで連載が始まったのである。以来、「そば屋移転・旧商家再生プロジェクト(12回で完結)」、その後、「柳町にぎわい再生物語」と、2本のルポを連載している。
 信州には小布施町がある。まちおこしの先進地として全国でも有名だが、30年ほど前、文化施設のオープンとともに住民が立ち上がり、まちおこしがスタートしたのである。柳町の場合、公的事業でなく、住民が自然に立ち上がり街並み再生の活動が始まったが、その様子は小布施町の黎明期を見ているように感じる。
 柳町の歴史と文化は、文化行政の法や条例に該当する学術的根拠がない。だが、辛うじて残る美しい街並みは、現代人の心を癒す"温かく懐かしい文化財"といえるだろう。次代に残すためにも、この街並みを愛する地元住民の存在を認識し、その価値に気が付いた人々の輪が広がる必要があると考えている。
 ところで、信州上田の「柳町」は、上田城下に町民町として誕生し北国街道が通り、明治期には蚕糸で発展した歴史ある街並みなのだ。
 北国街道とは本来、近江(滋賀県)から金沢方面へと延びる街道だが、通称・北国街道が信州にも通っている。正式名は北国脇街道といい、中山道の追分(軽井沢)から分かれ、小諸、田中、海野、上田、善光寺町、野尻、高田、直江津に至り、北陸街道に連なる街道なのだ。幕府の直轄地であった佐渡金山から金、銀が輸送される重要な道で、北陸の諸大名の参勤交代や関東と信越地方の物資の交流が行われた主要街道、加賀街道という別名もあったという。また、善光寺参りをする庶民信仰の街道として有名だった。
 街道に面した柳町の街並みは、格子窓、卯建(火返し)、土蔵、雀の踊りなど古の民家の佇まいが美しく、町名の由来となった柳が信州のやさしい風に揺れている。しかし、柳町に残る懐かしい風景は、存続の危機に晒されている。20年以上も、自治住民の人口が減少。住民が引っ越し、古民家が駐車場へと変わり、古き良き街並が歯抜け状態となり、確実に寂れ空洞化している。
 古の街道にある宿場や街並みの保存事業は全国で行われてきたが、殆どは国などの補助金によるものだ。歴史を物語る建物、それらを裏付ける文献や品々があると、エリアを文化財として指定し保存・活用する。また、都道府県や地元自治体の景観条例などで保存していくのも手法の一つだ。これにシンクロし、今年の2月、我が国初の包括的な「景観法案」が報道された。国土交通省と農水省が検討を進めてきたもので、3月上旬に国会に提出、成立から1年後の全面施行を目指している。地元住民たちの暮らしがある程度制約され、賛否が聞こえるが、古民家維持・保存の選択肢が増えたことは事実だ。
 では、住民主体の街並み保存活動が、何故、始まったのか。一人の住民が何とか柳町の街並みを残したいと、卯建の美しい幕末の建物を茶房として改装したのが10年前。上田市の都市景観賞を受賞したこの茶房は、当時、旅をジャンルとした雑誌に取り上げられ、全国から避暑に来る軽井沢のお客の一部が上田に足を運び、茶房は全国区となった。この出店がきっかけで街並み再生活動が始まり、様々な知恵を絞り、町内に残る上田の上水道の先駆け"保命水"保存活動などを展開、信州上田フィルムコミッションのロケ地としてPRなどを行っている。
 活動を維持するのはなかなか難しい。イベントはさておき、古民家の維持には、時間と経費が掛かり、大変な労力を住民が背負うため、他の策も必要となる。そこで、茶房を教科書として、街並みに残る古民家を、有志たちが商業施設として活用する試みが進行している。街並み再生には商業の力も欠かせない。柳町には茶房が開店するまで、江戸時代から300年あまり続く造り酒屋と、老婦人が営む骨董屋しかなかった。その後、しばらく出店が停滞していたが、上田在住のオーナーの手による蔵を再生したレストランが5年ほど前に開業すると、にわかに賑わいが戻ってきた。以来、夏には、地元の飲食業の有志グループが、大人が楽しめる夕涼みの祭りを開き、柳町の街並み再生の地道な活動を続けている。2年前、保命水の横にある巨大な旧商家に蕎麦職人が出店。同時期に、居酒屋と日本料理店がオープンし、飲食業の有志グループのメンバーに新しい血が加わり始め、今日、パン屋のプレ・オープンとなった。
 「街並み再生」や「にぎわい再生」は、終わりのない文化事業である。何時の日か、小布施町のようにこの街が復活することを願い取材を続けている。


◆2004/04/24◆ 桜吹雪と雪の競演
 我がアトリエは標高900メートルにあり、例年より10日ほど早く桜が満開。山裾にはヤマブキが、畦道にはタンポポなどが咲いている。今朝は、寒気団が北から入るとのことで氷点下近かったが、朝から快晴。山桜の色が、冷気で一層濃く見える。
 午前中、散髪と本屋に定期購読の本を取りに上田へ下る。その時、桜吹雪で花びらがフロントガラスに舞い降り、春爛漫……ところが不思議なことに、一部の花びらの消えてなくなる。何と、雪である。
 快晴で桜吹雪と吹雪、春と冬のコラボレーション。
 アトリエがある集落の背後に聳える菅平の四阿山を眺めると吹雪だ。そのおこぼれが桜吹雪と一体となって舞っている。
 異常気象と言われ何年が過ぎたのだろう。小言親父だから地球温暖化へと言及するだろう…と、皆さん期待されるかもしれないが、期待はずれ。地球温暖化には根本論から、一言も二言も三言もあるが、少々長くなるので、そのうち小言と収まるか大言を述べるか…お楽しみに。
 異常気象は、何と不思議で素晴らしい光景を私に与えるのだろう。本当に感謝である。
 昼からは、5月下旬に刊行される本の装丁と広告ツールの仕上げ。やってみない?と編集者のK氏から話があり、原稿を見たとたん私が惚れ込んでしまった、信州の里山歩きにピッタリな地図。私は山好きが高じて山間に住むほど。里山の取材も喜んで飛んでいくのである。しかも、著者は知る人ぞ知る山登りのスペシャリストで、実際に歩いた山々の手書き山行記録。著者のお人柄が一目で分かる名作。いゃーノリノリでギャラのことも考えず、広告ツール用にわざわざ本格的なダミーを作り、コマーシャル撮影までしてしまうほど。
 出版打ち合わせで月曜日に著者が長野に来るとのこと。著者に会う良い機会だと喜び、ゲラを仕上げ持っていこうと段取りする。が、結局、月曜はアトリエに来客の予定が入り長野へ行けなくなりガッカリ。夕方、ゲラを送るため郵便を投函しに、下の集落まで下りる。ふと、四阿山に目を移す。うっすらと雪化粧している。
 日が落ちるとさすがに寒い。数週間、温かかったので薪ストーブを運転することがなかったが、薪を入れて着火。
 晩酌タイムに入る。鋳物の塊からメラメラと心地よい音が流れ、ストーブの窓には千鳥足ような炎が揺れている。いい感じで酔いが回ってきた…静かな週末である。


◆2004/04/22◆ まちおこしの芽はその町の歴史と文化の上に芽生える
 上田の知人S氏から、ある商店街の街並み再開発の相談を受けた。以前からアドバイスをといわれていたが、5月から月一回のペースで私の講演やワークショップを通じ、住民自身が計画をまとめ、実施の監理に住民が参加するプロジェクトを目指そうというものである。S氏曰く「大人のプロジェクトにしたい」とのこと…大賛成である。
 私がかかわったプロジェクトは愛媛県双海町などいくつかあるが、不景気期に入っても活力ある街として新たな文化を育んでいるようで、良かったと…胸を撫で下ろしている。
 どのプロジェクトも、時代を乗り越えられるコンセプトを据え、普遍性の強い開発テーマで、ある意味で公的なコア施設を中心に「構造的なまちおこし」のプランを検討してきた。そして、数年単位の段階的なタイムテーブルを作り、長い期間、その町とお付き合いしながらアセスメントし、問題がなければ手離れするのである。
 いずれの場合も、徹底した地元住民への取材と周辺地域の歴史・文化資産、自然資産、観光資産の集客力などを基に、その地域の文化性というべきか「文化的な体力」があるかどうかを冷静に判断する。まちおこしや街並み再開発を試みても、その現場を担うのは住民であり、風土や歴史・文化が全ての背景なのである。このような視点でプランニングを構築するので、住民自ら楽しんで文化を育むことができるかどうか、その持久力があるかどうかが、大切になると考えている。
 大阪のシンクタンクにいる友人M氏との話でよく出るのだが、「まちおこしや街並み再開発などにかかわるプランナーは、町医者でなければならない」との台詞が合言葉になっている。「病は気から」、街の病気は街の体力から診察しよう…と考え、文化的な体力を把握して、決して無理な処方をせず、目先の処方の継ぎ接ぎを避け、体力を自認してもらいその中でできる処方の下に、回復、自立させることが基本であり、それが我々の仕事であると思っている。当時は市場調査、経済調査、流行調査などのマーケティング論が大変説得力ある時代だった。が、当時から経済理論に疑いを持ち続けて、あくまでも資料データでしかないと考えていた。実際、バブルが崩壊してからはトレンド・マーケティングが終焉を迎え、市場経済論の改革によって、今では、なんでもありの博打的経済論、勝ち組・負け組なのである。
 このような時代、「思いつき」レベルの企画やプランは、絶対にやってはいけないのではないか。また、今日、流行の若者参加型のまちおこしや街並み再開発も、慎重に指導しなければならない。ましてや、新しい文化を創るなどと高慢になるのは論外と思っている。
 「街の文化」とは「その地域の歴史に育まれた複雑な構造体」なのである。簡単に新しい文化など創れる訳がない。新しい文化を育むにしても、その町の歴史と文化の上に芽を出すのである。
 S氏には、似たような話をしたが、その上でのご指名である。誠意を持って、がんばろうと考えている。


◆2004/04/17◆ 戦後の我が国はある意味の「実験国家」
 イラクでの新たなる、邦人2人不明という事態が起きている中、3人が解放され、解放時のビデオテープが流れた。
 3人の一言目は、ボランティア女性の抑えながらも感情的な口調と、男性2名の少々ぞんざいな喋り方から発せられたコメント「活動を継続したい」という予想通りのものであった。なにか、自分の世界に閉じこもった子供の詭弁ように感じてしまったのは私だけだろうか。
 そのコメントに対し首相や官房長官、与党幹部は、どのような反応をするのか注目していた。首相と官房長官は解放成功の安堵からだろう、「自覚を持て」、「頭を冷やせ」、与党からは「どれだけの人員と税金を使ったのか」と、また、議員立法で、渡航禁止法制化が議論されたという。一方、米国の国務長官は、民法のインタビューで、解放の平和的解決と自衛隊撤退要求を拒否した首相の姿勢に、「危険を顧みない市民や自衛隊を誇りに思うべきだ」と述べたのだ。
 平和ボケ国家の光と影が露呈したのである。
 「自覚」を持っていると勘違いし、「善意」という言葉で自己実現をしようとしている若者、そのような若者も国民にいるということ理解しながらも、米国を始め各国に頼りまくり、「自立」して救出できなかった政府。その政府に、市民も自衛隊も一緒くたにしながら、管理を確りしろ…という隠されたメッセージのような「一言のイヤミ」をコメントする米国。
 米国の庇護の下に、自立できない国で、純粋培養された若者という図式に見えないだろうか。
 「善意」という概念は実は厄介なものなのだ。なぜなら、米国のような移民実験国家であれば、歴史が無いというなかで国を作るためにヒューマニズムの下の「善意」が必要だった。しかし、歴史ある国では、その国の歴史と文化の中に善意という概念が潜んでいることを知るべきである。歴史と文化に疎い、もしくは自虐的に歴史を見てしまうように育った若者は、アメリカ的な善意という言葉に幻想を見てしまう。歴史の無い国家は、世界の善意といって侵略戦争に突っ走り、占領の方法は日本占領のマニュアルを使うと、無邪気な発言をする。
 本来、善意とはその国の歴史によって違うのだ。相手の歴史観や複雑な構造の文化を深い視点まで理解できないかもしれないと構え、最大限に解釈した上で慎重に行うべきのもを善意と呼ぶのではないか。米国に占領されたイラクで、誘拐と拉致を容認する意見が聞こえたり、日本は広島と長崎を忘れたのか…という発言が聞かれるのは、中東の歴史ある国の善意という概念を含んだ言葉に思える。そして、「日本なりの自立した判断における善意はどこにいったのか ? 」と聞こえてしまう。
 結局、戦後日本もある意味の「実験国家」かもしれない。



◆2004/04/15◆ イラク・邦人3名の無事解放
 少々、時間がかかったがイラクの邦人3人が無事解放された。
 その瞬間の公共放送の取材映像。「解放されました。大丈夫です。待ってください、今、入りましたが、また2人が拉致された…模様です」という映像が流れる途中、3人の家族は喜び勇み、チャンネルを替えまくっていた。本当に解放されたのかどうかと、公共放送以外の民放でも確認したかったのであろう。
 3人の家族は臨時ニューズか耳に入らなかったのだろう。入るわけもない。自分の家族ことで精一杯だったから。新たなニュースが目に入らないほど疲れ、今度こそ、本当に安心したかったのである。
 臨時ニュースは、長野県の報道機関からフリーとなった若きジャーナリストを含む、新たなる邦人2人が拉致されたという。
 政府は現在、情報を確認中というが、日本人2人が行方不明。
 自分の家族が開放され嬉しいのは肉親の愛だろう。しかし、同時間に、また同じ思いで家族が奈落のそこに落とされたかもしれないのだ。もし、あの振る舞いを2人の家族が見ていたら、どんな気持ちになるのだろう。
 チャンネルを替えまくって喜び飛び跳ねる姿。本当に良かった。が、何かがずれているような…なんとも腑に落ちにくい影像を公共放送が流していた。
 今、イラクは「カオス」の中にある。
 中東の歴史ある国で起こった事件は、宗教指導者が解決のキーパーソンとなった。歴史がありながら、無宗教といわるようになった日本の人々の様々な姿が、イラクで炙り出されている。
 これからどうなるのであろうか…。新たな2人が、拉致されていないことを祈りたい。そして、たくましい家族であってもらいたい…と思う。



◆2004/04/11◆ 北海道から骨っぽい男が呑みに来た
 昨夜、呑み友達が北海道からやってきた。呑み友達というより幼馴染で、幼稚園から中学校まで一緒だった。医者の家の次男坊で、骨っぽい男ながらもナカナカのキャラクターで、中学では生徒会長という秀才。彼との思い出はいろいろあるが、小学校の頃お互い剣道を習っていたり、小学校2年頃のマージャン仲間だったり、中学校文化祭での自主制作8ミリ映画の監督(彼)とカメラマン(私)のコンビを組んだり、林間学校として登った烏帽子登山徹夜マージャン事件の共犯だったりと、笑えるものばかりだ。私は当時から多趣味で、本来、勉強に回す時間を浪費していたが、彼は医師を目指して北海道の大学に進学し、現在は小樽で医者をしている。
 大学の頃、中学校の同窓会で一回呑んだ覚えがある。が、私が信州に帰ってくるまで20年近くご無沙汰で、お互い風の噂で元気にやっていると聞いていた。
 数年前、突然連絡があり、ウイスキーを片手に我がアトリエに現れた。開高健のファンと知っていたがSトリーウイスキーをぶる下げた姿は、さながら開中(後10年たったら「高」だな)健というところ…。以来、2年に一回のペースで呑んでいるだろうか。
 蕎麦屋やこのアトリエでのひと時は、いたって男の呑み会。人生の構え方から、時事放談、歴史・文化論、医療、マスコミ論、音楽からオーディオ論まで話題は多岐にわたる。
 不思議なもので20年というブランクは殆ど感じず、意見が合うのだ。全く異なる業界を歩いてきたのだが、お互い、現場でのさまざまな経験を通して持ち得た人生観における尺度が似ているのであろうか。思想信条における立ち位置も、どちらかというと右。というより「世の中が左過ぎる」と、お互い思っているのだが。
 昨夜の呑み会をまとめると「我々世代の直後にいるマニュアル世代に対する処方」、「医療事故・訴訟に対する医療ガイドラインというお笑い」、「語彙の少ない時代における物事の分別(例えば事件と事故の概念すら曖昧な時代をどうするか)」、「歴史と文化を溶解しかねない世の中を席巻するエセ・ヒューマニズム」、「行き過ぎた母系文化社会における男の構え方」、「家の歴史と親のあり方」であろうか。
 当然、ここ数日の「イラクでの邦人3人の拘束」も話題に上った。帰国時の記者会見で彼らは何を述べるのか…で、議論が止まった。見ものというより、怒りが込み上がるようなコメントは言わないで欲しい…と願ってしまう。
 ニュースでは24時間以内に解放と伝えている。実際に解放されるまで何が起こるかわからないが、政府の対処は成功したようだ。



◆2004/04/10◆ 戦争は激情の…果てしない拡がり
 イラクでの「邦人3人の拘束」という事態に対し、政府は手も足もです、アメリカに頼っている。つい最近、連合軍のスペインが撤退を決定し、アメリカは連合軍の足並みが乱れないように、日本を名指しして勇敢であると持ち上げていた。また、オーストラリア、ロシアも首相の「撤退なし」を「テロに屈しない懸命な決断」と伝えている。が、ドイツとフランスは今のところ何のコメントも無い。選択肢の無いなかで、政府はギリギリの判断を強いられている。
 昨日から書いているが、戦争は激情の、果しない拡がり――という言葉は、「無常」を意味しているのではないか。今、TVでは「小さな善意」や「思い」、「気持ち」、「感じてほしい」、「訴えたい」というインタビューの言葉が飛び交っている。しかし、「激情の、果てしない拡がり」の中で、それらの言葉が武装集団に「響く」のであろうか。そうあってもらいたいが。
 私は、今、般若心経を唱えている。
 なぜなら、奥大使と井ノ上正盛一等書記官が、昨年、人道支援という国家の判断において、我が国はどのような役割があるのか…と、精神を研ぎ澄ましながら奔走し、死んでいったことを思って。そして、彼らが「犬死」のように感じてしまう世論の動きが聞こえ始めたことに。外交官2人と邦人3人は同じ日本人という人間である。ヒューマニズムという視点では、命は地球より重たいが、外交官の死が犬死と思えてしまうこの国の雰囲気は何なのか――。
 親の理論で訴えるなら、外交官二人の妻や親の毅然たる態度はどう理解するべきか…。「覚悟」があったのであろうと、理解するしかない。
 摩訶不思議な日本の「光と影」が、現実として闊歩している。



◆2004/04/09◆ 平和ボケ国家の若者たち
 毎週、木曜日の夜8時は、TVのチャンネルを某公共放送に合わせいてる。江戸時代の庶民を描いた喜劇芝居があり、江戸歴史研究家や風俗研究家の第一人者の最新歴史考察によって時代考証しているので、勉強のためと思い見ることにしている。
 ところが、8時30分頃、臨時ニュースが流れ「イラクで邦人3名が武装集団に拘束される」とのテロップが流れた。
 ついに来たか…と思いつつ、昨夜は、徹夜状態でニュースを見ていた。
 私の思想信条では、イラク戦争への我が国のスタンスに対し「自衛隊派兵、反対」の立場である。今回のイラク戦争は「アメリカの傲慢」という一言に尽きる。太平洋戦争戦勝国の米国から、ある意味で与えられた憲法を改憲し、精神的に自立した上で自前の軍隊を持ち、国際政治に出るべきである。外交の最悪の一手段が「戦争」であるのなら、当たり前なことだと考えるのだが。勝手解釈の憲法9条の運用も、ここまで来ると滅茶苦茶である。屁理屈とも言える解釈・運用の挙句の果ては、「派兵ではない。人道支援である」とくる。アメリカの庇護にどっぷり浸かっていた「平和ボケ国家・日本」から、ぼちぼち目覚めなければならんのではないか。
 米国の同時多発テロには同情するが、名指しのテロ支援国家演説や、初めから無いと分かっていた「大量破壊兵器」の破棄を強要するというイラク戦争の一方的な開戦など、ブッシュ大統領親子の中東政策は、ことごとく「乱暴者の蛮業」としか思えない。巨大国家の二大政党制による外交の二者択一という、政策のブレに生じた中東政策の失敗の結果ではないだろうか。つたない勉強しかしていないが、歴史をそれなりに紐解くと、西洋文明が産み出した鬼っ子の中東に対する「逆コンプレックス」のように見えてくるのである。
 さて、今回の3人の肩書と年齢を見て、なんとも薄ら寒い思いをした。平和ボケ国家・日本の「逆の虚像」が見えるような気がするからだ。30代前半のフリージャーナリスト、同じく30代半ばのボランティア女性活動家、その卵ともいえる18歳のフリーライター。ジャーナリストたちもピンキリの時代になったのだろうか。新聞記者がイラク戦争のお土産といって不発弾を持ち出し、ある空港で爆発、空港職員が1名死亡した事件も、30代前半のジャーナリストだった。国連が狙われ撤退した状況の中で、ボランティア活動をしてきて、如何に危険かを知っていたのではないのか。高校を卒業したばかりのフリーライターは、現地の病院を見てきたいと親の反対を押し切って日本をたったようだが。果たして彼らは「自分は戦場に行く」という感覚を持ち合わせ、覚悟をしていたのだろうか…、何かが起きたら日本が大変なことになると理解していたのか…と、本当に疑ってしまう。
 外務省は数年前から、渡航危険情報を出している。如何なる目的でもイラクへの入国は見合わせること、イラク在住の邦人への退避勧告をしていたのである。イラク戦争開戦時、邦人の「人の盾」を説得する大使館員の苦労する姿も報道されていたではないか。ましてや外交官2名が襲撃され死亡してから、現地に残っている外交官やプロのジャーナリストたちは現地の治安情報筋と緊密に連絡を取り、自らの安全を確保できるように慎重に判断、行動し、神経を研ぎ澄ましながら職務を続けているのである。
 先月、「キャパは理解していた。戦争は激情の、果しない拡がりであるから――」というキャパを追悼する言葉を紹介した。今、イラクはこの「激情の、果てしない拡がり」の中にあり、武装集団も激情によって行動している。昨夜から今日に掛けて起こった出来事は、戦争は「激情の、果しない拡がり」であることを忘れてしまった日本の影としか理解できない。
 現在、政府は武装集団のより正確な情報収集、救出の検討・立案・準備をしている。そして武装集団が示した期限内にどのような手を打つのか。自衛隊を撤退できるのか…。政府は最大の危機に直面しているが、最悪の結果にならないことを祈る。



◆2004/04/03◆ 上田市に本格的な天然酵母のパン屋オープン
 昨日から信州・諏訪では、奇祭「御柱祭り」が行われている。本来なら最前線で取材しているはずなのだが、KURAで連載している「柳町にぎわい再生物語」の取材で、上田を歩いていた。
 今月下旬、食通を唸らせる天然酵母パン店Rを東京に構えるKさんが柳町に店をオープンする。Kさんは上田市の出身で、柳町の隣町、木町で生まれた。高校教師などを経てパン屋に転身するという波乱万丈の人生を歩み、パン職人として19年になる。柳町のにぎわい再生のカギを握る出店計画と思い、大家になるO酒造のO先生とKさんを2年ほどマークしていた。店はO酒造の棟続きの古民家をKさんに貸し出すかたちで民家再生を兼ねている。
 まちなみ再生も重要なことだが、パン好きの私にすると上小エリアの「食文化」を変革するような出来事と喜んでいる。実は、以前から上田周辺に本格的なパンを扱う店は1店しかなく、軽井沢や安曇野まで出かけていたのだ。
 本格的なパンは重たく硬い。スライスした瞬間に穀物の香りが漂い、口に運んで噛み締めると、風味が瞬く間に広がる。そして、噛めば噛むほどうま味が増幅していく。良いパンだから相棒には良いものをと思うが、安物のハムやチーズ、ワインでも、パンがフォローしてしまう。パン好きの一市民として応援しようと思っている。
 心配してしまう一面もある。高齢者の口に合うかどうかだ。本来のパンなのだが、日常食べているパンとはまったく異なることだ。上田市もどこの地方都市と一緒で、中心部は住民が高齢化し空洞化している。その辺を考えているから出店コンセプトは、「昔の茶屋、高齢者住民のための憩いの場」だという。
 古民家を改装して出店するわけで、長期ビジョンがあると思う。あせらず、じっくりと根を下ろし、柳町の再生の一翼を担い、長野県のパン業界に良い意味での一石を投じてほしい。
 まちなみの再生は、建物や道路から始まるのではない。食文化などの文化面が芽生え、その結果、ハードを整備していくのであるから。



◆2004/03/30◆ 田舎暮らし通信「突然やってくるビックリする区費(自治会費)」
 田舎暮らし通信・その3(になると思う)。年度末は何かとお金がかかるが、この時期、区費の徴収がある。ところが、いつも忘れてしまい、お金の用意ができていない。この集落の区費は、月に3000円ほど、年間36000円である。この額は妥当かどうかは分からない。確か、上田や長野では1年で1月分か2月分の程度の額だったと思うが…。まぁ、人口密集地帯と同じわけがない。田舎だから高齢者のお楽しみ会や様々な催事、お祭りなど様々あり仕方ない。この集落を生活のコロニーにして、一歩も出ないお年寄もいるから、楽しみは多いほうが良いはずである。田舎のルールだ。
 しかし、4ヶ月まとめての徴収で、12000円がアッという間に飛んでいく。油断していると大変なことになり恐ろしい。最寄の銀行は車で15分少々。もう少し近いところに農協がある。が、なんとなく不信感を持っていて水光熱費の支払い口座以外、使っていないのである。
 その恐怖の日が、今日だった。ピンポーン…とチャイムが鳴り、また押し売りかな…と思い出てみると、隣組の伍長さん(たぶん都市部では隣組の班長さんと呼ばれている)だ。町の広報配布の時期でもないのに何でかな、と思いつつ、アッ!!。上を下への大騒ぎ。結局、明日、伍長さん宅に持っていくということで帰ってもらった。
 ここ数ヶ月、仕事がスッ飛んだりしていて、頭の中に「貧乏」という言葉が占領しているのである。そして、どうしようと思いながら、今、晩酌タイムだ…。アルコールが入って、ネガティブイメージが麻痺してきたのか…よく考えれば、昨日、TVのギャラが入ったじゃない(笑)。しかし、アトリエの家賃と通信費などの経費で右から左。残った小額が私の小遣いなのであるが、これが区費に変身するのかと思い…酔いが覚めていく。何とかしてくれ〜。


◆2004/03/28◆ 表現者とメディアに係る者たち
 昨日、朝帰りだった。長野で呑み会があり少々度がすぎた。しかも、私のファンが1人いたらしいのだが、不覚にも数時間記憶が無い。年なのかなぁ…、ハイ、年かもしれない。
 少々、酔っ払いで、整理できてない支離滅裂も含まれておりますので笑って読んでください。
 この1年の間、印刷メディアに携わる人々について考えざるを得ない特異な経験を数回した。当然、業界全体ではなく、ごく一部の人々の振る舞いである。私も様々なメディアを通していろいろな表現を続けているわけで、私自身も含めて考えなければならない話なのだ。印刷メディアは、燃やしてしまえば歴史に残らない。が、残ることが前提である。再生装置が要らないペーパーメディアこそ、大変で厄介なのである。
 印刷メディアに携わる人々について考えざるを得ない…ということを簡単にまとめると「高慢」と「傲慢」に陥りやすいということである。1月前、ある飲み会で呑み仲間のTVディレクターがこんなことを言った。「出版界の編集者って、表現するのが難しいけど高慢というか傲慢というか…」。同席していたある編集者が「失礼な…(笑)」。一瞬の笑い話だった。
 しかし、数年前からいろいろなことがあり、「うぅーん」と心の中で唸ってしまった。中央、地方の何社かと仕事をしたが、私が観察する限り、「高慢」と「傲慢」には、共通した傾向があるようだ。また、組織の規模が大きくなると、この傾向が強くなるのではないか。
 印刷メディアはTVなどの電波とは違い、ペーパーとして残るため次元が高いと思いがちのようだ(社会での役割は一緒で同じメディアなのだが)。だからなのかわからないが、文化を創っているという錯覚に陥りやすいのであろう。どんなメディアでも、歴史を冷静に理解し、社会と文化の応援団でなければいけないと私は思っている。
 ペーパーメディアは、文章とビジュアルという身近な表現のため、近寄ってくる人々が多い。その人々への対応はどうなのであろう。取り上げる場合、文化的価値があるか判定するべきなのだが、逆に利用する手法もあるのだ(教養と見識、最低でも良識で良く観察しましょう…と思うのだが)。メディアにかかわる多くの表現者も、同じように判定されるが、消費社会のスピードが速いためか、使い捨てられるパーツなのかもしれない。媒体が出なければ表現の場所が確保できないのは当たり前だか、このような環境下、作品よりも、編集権や版権が強くなるのは仕方がない…とも、錯覚してしまう。 (現場で取材した表現者の表現物がなければ、ペーパーメディアは成り立つわけがないのだが…)。卵が先か、鶏が先か?なのだが、表現物は鶏の部位であり構成物で身体となると考えられないか?
 今日、専門家が権威になれるのはメディアによる力であって、場合によっては作られることもある…と。お互い分かっていて利用することもある。この辺の詳細評論は、西部邁の「マスメディアを撃て」にあった。
 話は飛ぶが、メディアの生命線である、裏の取り方の次元のレベルが、脆弱になってきている側面も怖いのではないか。(貸本屋レベルの図書館や、ピンキリな情報のインターネットに頼ることが多くなるのは避けられない。自腹を切って資料を確保しなければ一定の信用のレベルならないのでは…)。定年直前の編集者の証言(あきれ返ったが…)であるが、権威を監修に使い責任から距離をとる方法もあるらしい。
 メディアの特性と策は置いといて、人として憧れの仕事に付くということでは、メディアにいることがステータスとなる場合もある。ちやほやされるし、ある種、成功した人々のように感じている方もいてもおかしくない(しかし、これはセンスの問題だと…、社会的責任があるから全うしないとね。その時にステータスから本業になるのではないかなぁ。ある若者は「感性の問題」と言っていましたが…)。
 またまた飛びますが、もし、今日の社会を幕末とすると、当時の幕府の官僚レベルではないのではないか…と、感じてしまう。維新がなぜ起こったのか…、誰も大衆に責任を取らなかったからでは…。第一権力が劣化したからと思う。バブル以降、経済が改革の方向にあるが、その次に政治かなぁ、しかし、メディアは改革されていないと思う。関連の人々たちの振る舞いを見ると、気がついていないと感じてしまう。
 表現者としては、いくら世の文化のためと思っても、売れないとダメである、プロだから当たり前な話だが…。しかし、コンテンツの問題より、どうしても売り方にウエイトが偏重するあまり、丁寧さや質を落として食っていく…。このルーチンの中で、日々を生きているのではないかと思ってしまうのである。「文化性」と「拝金主義」は裏腹の関係で、私が、以前、携わっていた「広告表現」と「コマーシャリズム」という表と裏の危うさなのである。
 小言はここまでにします。あんまり考えると自分自身、辛くなってきますから。
 そこで、昨日の呑み会の皆さんにメッセージです。「若者は大志を抱け。大志を抱くということは、ギリギリまで歴史の表と裏を考え、文化の翻訳家としてがんばれ! 新しいものは、所詮、歴史の知恵の上にあるのだから」と。アハハハ、長いね。
 40も過ぎたから、コーチもしくはアドバイザーをしようと思うのですが…。まだまだかなぁ。2004年3月は、とりあえず難しいようです。
 難解ですので掲示板で文句やご指摘をご連絡ください。私の独断や誤解も含め、勉強のためご連絡をいただければと思っております。


◆2004/03/25◆ 写真家アンリ・カルティエ・ブレッソン
 日記といいながら、もう、5日も空いてしまった。友人から、日記は力を入れずほどほどに…とアドバイスをもらっていたのだが、力が入りすぎた。
 20日にキャパの話を書いたが、キャパに思いを向けると、世界的な報道写真家集団「マグナム・フォトス」を一緒に立ち上げたアンリ・カルティエ・ブレッソン、デヴィット・シーモア、ジョージ・ロジャーらのことも頭に浮かんでくる。この偉大な写真家の中で、私が惹かれるのはアンリ・カルティエ・ブレッソンである。前号のKURAのアンティークミュージアムで記したが、我が国では地味な存在で、あまり認識されていないと思う。
 彼は1908年、フランスに生まれ、20歳の頃、絵画を学び写真を独学する。その後、メキシコ民俗学調査隊へ参加、アメリカに渡って映画製作を習得しフォト・ジャーナリストとしての術を手に入れた。1930年代、ヨーロッパに戻り、第二次世界大戦へと突き進んでいく様子をドキュメンタリー・フィルムとして残した。32歳の時、彼の人生の中で最大の試練がやってくる。ドイツ軍の捕虜となったのだ。幾たびかの脱走の試みで脱出に成功し、捕虜や脱走者を援助する組織で活動するようになる。パリ解放後のドキュメンタリー・フォトは、悲喜交々が記録され市民の叫びが聞こえるような写真だ。戦後間もなく、マグナム・フォトスの設立に参加。1950〜60年代、彼はフィールドをソ連、アジア、中南米に求め、各国の革命や独立をルポしていく。
 彼はストリート・フォトの名手で、ドキュメント・フォトというジャンルを切り開いた。作品を見れば理解できると思うが、「決定的瞬間」をフィルムに刻むことができるのである。どの作品にも被写体の人物と、その状況の向こうに広がる時間、空間、物語を連想させる魅力が込められ、写真を見た者を釘付けにさせ、画像の中で展開するドラマの意味を考え続けさせてしまう。作品の各所で高度な撮影テクニックを駆使する彼の手を、評論家たちは何時しか「ビロードの手」と表現した。
 東京のある写真屋に、30年ほど前、彼が突然現れたと聞いたことがある。薄汚いレインコートを着て、ポケットから汚いほど使い込んだ愛用のライカを出し、ぶっきらぼうにカメラの調整を頼んだらしい。愛嬌など少しもなかったという。いかにもフランス人という感じだが、フォトグラファーと呼ばれるのを拒否し、また、カメラ機材や撮影技術についてほとんど語る事がない彼らしい逸話である。写真の分野での活躍は1970年代までで、その後、絵画やデッサンを中心とした生活を送っている。
 写真は単に目の延長である。また、写真にとらわれない彼の表現方法、人生の構え方や生涯現役など見習いたいものばかりである。



◆2004/03/20◆ イラク開戦から1年にキャパを思う
 イラク戦争開戦から1年。この戦争について、山のように叫びたいことがあるが、何も書かない。
 中学校のときロバート・キャパの写真と出合い、マグナムという写真家集団の存在を知った。その話を覚えていたのか…母が「ちょっとピンぼけ」(ロバート・キャパ著 川添浩史/井上清一訳 ダヴィット社)という本をプレゼントしてくれた。
 その本の序に、ジョン・スタインベック(1902-1968年/1962年ノーベル文学賞・作家)が、「キャパが遺したもの」と題して寄稿している。この日、あえてレビューとして紹介したい。少々長いが、心の何かが動いたら、ぜひ、買って読んでいただきたい。

  ――――――――――――――――――――――――――――――――――――

私は、写真のことについて何も知らない。従って、私がキャパの仕事について述べようとするのは、唯、素人としての立場からである。
専門の方々は、どうぞ、この私を許して下さるように――

キャパが、――カメラとは、決して冷たいメカニックなものではない、ということを、なによりあきらかにしたのは、何人も同意するだろう。
恰も、ペンのように、カメラも使うひとによって、すべてが、きめられるのだ。
それは、じかに、人間の理性と感情につながっているものである。
キャパの写真は、彼の精神の中で作られ、カメラは単に、それを完成させただけだ。

すぐれた画家のカンバスのように、キャパの作品は常に、あきらかな表現をとっている。
キャパは対象について、どのように見て、どのように為すべきか、をよく知っていた。
例えば、戦争は激情の、果しない拡がりであるから――。
然し、彼はその外にあるものを撮って、その激情を表現する。
一人の子供の顔の中に、あの民衆全体の恐怖を、彼は示した。
彼のカメラは、そのときに、激情を捉え、且つ、展(ひろ)げたのだ。

キャパの作品は、それ自体、偉大なる心の絵であり、その故に、圧倒的な共感を、いつもよびおこすものである。
何人も彼にとって代わることは出来ない。すぐれた芸術家にとってかわることは、いつも、でき難いものであるが、幸いにわれわれは、少なくとも、彼の写真の中に人間の本質なるものを、学ぶことが出来るのだ。

私はキャパと一緒に、しばしば、仕事し、旅行した。
彼は多くの友人に愛されていたが、彼は、常にそれ以上に友人を愛していた。
彼にとっては、自分の仕事が、何気なく受けとられることがひとつの喜びであった。
が、その彼自身は、決して、何気なくどころではなかった。
彼の写真は、偶然からは生まれない。
その作品のもつ感動は、ふとした拍子などから出てくるものではない。
彼は、動きと、明るさと、哀しみを、写すことが出来た――彼は、思想も写し得た。
彼は、一つの世界を作った。それは又、キャパ自身の世界でもあったのだ。

キャパの偉さに、二つの面がある。
一つは彼の写真――芸術家の心をもって、われわれの時代の――醜く、或いは美しい――真実で、生々とした記録を残した。
然し、キャパはもっと重要ともいうべき、もう一つの仕事をしている。
彼は、自分の周囲に若い人々を集めて、勇気付け、教え、ときには、食事を恵み、着物を与えた。然し、彼が教えた一番大切なものは、彼等の芸術を尊敬し、しかも、その芸術を創り上げる一つ一つの過程――生活のすべてを、疎かにしてはならない事を教えたのであった。
彼は若い人々に、人間はそのように生くべきであり、又、それだけが真実であることを、身をもって証明した。
彼は自分の仕事の仕方を、ひとに、決して強制するような事はしなかった。
然しながら、キャパの影響は、必ずや、彼と共に仕事をした人々の中に残るであろう。
そして、ひとびとはキャパの、或るものを、一生忘れないであろうし、きっと、次の時代の人々に、そのものを、伝えるにちがいない。

キャパが、もはや、いない、とは考えられないことだ。
私には、まだ、その死が信じられない。
私は、今、キャパが遺していった無限のものに、感謝する心でいっぱいである。

                          ジョン・スタインベック 1956年9月22日 ニューヨーク


◆2004/03/18◆ 小さな集落の神楽係
 今、「信州の祭り」という切り口から、社寺仏閣の信仰の歴史をたずねる本ができないか、と画策している。昨年、一昨年と「信州休日の社寺巡り」という本を出したが、信州には2万もの神社、2千ほどの寺院があるという。ならば様々な取材・編集の視点で、ひとつでも多くの社寺仏閣を紹介したい。今年は諏訪の御柱祭りもある。
 そこで、今日は肩の力を抜いて実際にあった「神楽の係り」という小話をひとつ。
 昨年の秋祭りの日、隣組の伍長さん(たぶん都市部では隣組の班長さんと呼ばれている)の奥さんが慌ててやってくる。
(奥)「いゃースミマセン、安藤さんは今年、神楽の係りでした…」
(私)「はぁ? !」
(奥)「昨日、秋祭りで向((※ルビ/むかい)この地区の名称)の安藤さんがこなかったがどうなっているんだ…と、怒られましてねー。今年の頭に、安藤さんと○○さんに決まっていたのを忘れて、伝えるのも忘れまして…」
(私) 「ところで神楽係とは何をすねのでしょうかね。まさか舞うとか…。それならこれまで練習があったはずですねー」
(奥)「えっ!どうしよう。もっと怒られるねー。でも、何するのかねー」
(私)「はぁ…」
(奥)「後で聞いておきますねー。とりあえず謝って歩いてるんです…」
(私)「わかりました。また連絡ください。ここに(祭りの連絡のプリントを見ると…)今日も3時から神楽があると書いてますけど…、今日はいいんですか?」
(奥)「あら…、どうしようー」
(私)「あせらない、あせらない。とりあえず連絡ください」
(奥)「わかりました。では、来年の春祭りは宜しくお願いします」
 いやはや何という長閑な集落なのであろう。私は春祭りと夏祭りをすっぽかしてしまった。その後、電話が入る。
(奥)「神楽の道具を神社までリヤカーで運ぶ係りだそうです。もう、今日はいいそうですよ」
(私)「クスクスクス…そうですか、わかりました」
 これって、神楽の係りというのでしょうか…?
 ちょうど、この頃、「信州休日の社寺巡り・東北信編」の編集で、連日、徹夜が続いていた。山の中の古民家暮らしといえアトリエの中は別世界の忙しさ。鬼のような顔つきになっていたと思う。ところがこの長閑な話が本当に心地よいのである。田舎暮らしに際して、私はできる限り地元のコミュニティーに参加し大切にしたいと思った。豊かな自然環境だけでなく、素朴な人付き合いも古民家暮らしの良さだからだ。
 画策している本の切り口も見えてくる。小さな集落の神社の祭りは、長閑な時の流れの中で素朴に営まれているんだと。



◆2004/03/17◆ 焼酎ブーム一考
 さて、今日は「焼酎ブーム一考」である。数日前、長野駅周辺にある宮崎出身の大将が構える魚と焼酎の店で酒宴があった。何かと文句の多いフリーライターのKさん、とびっきり明るいTVディレクターのOさん、若さ溢れるKアナという面々。途中から某雑誌編集長のN氏、焼酎アドバイザーのI氏が参入。
 松山に住んでいた頃、酒はもっぱら焼酎とバーボンで、西四国や九州に出張も多く、各地に呑み仲間ができた。昔とった杵柄ではないが、当時の呑んだくれた経験と銘柄を思い出しながら講釈をしようとした。が、ここ数年、晩酌には日本酒をやっているので最新の流行がわからない。雑誌の情報に頼っても、長野で呑み歩いている5人の知識には到底ついていけない。いかん、真田町で仙人暮らしをしていると世の中から取り残される…と、本気で悩んでしまったのだ。今の焼酎ブームは第三次のものだと思う。第一次ブームが合成焼酎、そして酎ハイによる第二次ブーム。それにしても今回のブームはお洒落な雰囲気が漂う。焼酎ってそんなにお洒落だったろうか…。
 現代酒事情を考えるとき、いつも頭に浮かぶのが十数年前にあった「酒税法と酒造免許の改正」である。確か、輸入酒の価格是正を柱とした海外からの市場開放の圧力で行われた。今日では酒販免許も改正されつつある。清酒は等級の廃止で、吟醸、大吟醸などのお洒落なパッケージでおいしい酒が競い合う時代に入り、日本酒ブームとなった。焼酎は業界を挙げて改正に反対したが改正法は成立、価格が少し上昇したのを覚えている。私は九州の地焼酎メーカーが生き残れるのだろうかと本気で心配した。
 昨年、焼酎が日本酒の出荷量をついに上回った。半世紀ぶりの快挙だ。この数年、日本酒は成熟期に入ったと思うことがある。様々な商品が出尽くしてしまい、しかも、清酒自身フレッシュなお酒になりすぎたのではないだろうか。市場受けや流通の仕掛けつくりに力が入りすぎ、基本的な醸造技術の研鑽がおろそかになっていないか気になる。これから造り酒屋が淘汰されていく時代にならないことを祈ってしまう。一方、焼酎は50年前に改悪された甲乙2類の分類による安酒イメージの呪縛から解き放たれ、歴史的に正統な乙類の復活を果たしたといえるだろう。また、昔から原材料にいくつもの種類があり、しかも蒸留酒なので何年も寝かせることができ、いくらでも個性が出せる。
 国内エスニック現象(地方文化の全国化※私が勝手に定義している言葉)もこのブームを支えていると思う。沖縄ブームや九州食材のブームなど、九州、西南諸島、西四国の食文化にスポットライトが当たっのである。このブームが本物になることを願って、今夜の晩酌は焼酎とすることにしよう。


◆2004/03/13◆ 真田町議会傍聴・町長の「不退転」演説
 先日、真田町議会を傍聴した。この町に引っ越してきてから7年過ぎたが、議会傍聴は初めてだ。今、この町では市町村合併で大揺れしている。昨年の秋に実施された町民意向調査で賛成と反対が拮抗し二分してしまったからだ。ここまで真っ二つになると、双方、意地になる。反対派が新聞チラシを配ったと思ったら、これはまずい…と町が新聞にチラシを挿む。反対派が署名を集めたら、行政に近い人々があせってグループを立ち上げ、合併の推進署名をかき集める。
 本来の議論であるべき町の未来を戦わせず、賛成ありきの賛成論、反対ありきの反対論で終始している。合併しようが、自立しようが「覚悟」してかかれば未来が開くはずなのにと思うのだ。
 賛成派の説得は相変わらず「財政がもたない」だ。確かに、景気が回復しなければ税収の増額はありえない。人口ピラミッドを見れば団塊の世代が退職し、税収や年金、福祉が増えることは、国のレベルでは以前から対策をとってきた。果たして市町村は対策を打って対応してきたのだろうか。我が町をはじめとする全国の殆どの町村は「3割自治」で行政を運営してきのだ。自動的に入ってくる地方交付税などに胡坐をかいていたのである。
 反対派は、「国が作った借金を市町村合併で何とかするとは何事だ」という。確かに理論としては正しい。が、こちらのほうも3割自治だったことを忘れている。また、隣町に素敵な施設があるのになぜ我が町にないと、行政へ住民サービス向上と叫びながら、町に補助金を掻き集めるようにさせたある種、共犯なのである。本来、自立した住民であれば、自ら地域を学び新しい文化や観光を育むことができたはず。
 20年ほど前、大分の湯布院で博物館のプロジェクトにかかわったが、地元住民は本気で町を何とかしようとしていた。今日の湯布院は地元住民の努力と実行、それをサポートする行政というシステムがあったからなのだ。
 我が町の姿とは程遠い。どちらも今までの姿勢を反省せず、ただ喧嘩している。
 小言はここまでにするが、傍聴しに行った理由は、H山町長の3月議会の所信で「4市町村の枠組みを前提に、合併以外に王道なし。政治生命を賭け不退転の決意で望む」と表明したからである。そこまで言ったのか…と思い、議員の誰かがこの発言に鈴をつけるかどうかに興味を持った。すると一番若手のS口光議員が鈴をつけたのだ。「町長の発言は、枠組みが崩れた場合、辞職を覚悟していると理解するが」と。しかし、町長の反論は「どうとってもらってもいい、強いリーダーシップを示したものだ」で終始した。「辞職」という二文字は最後まで使わず「今後に影響あるのでお答えできない」と。
 「政治生命」や「不退転」という言葉は、『リーダーシップ』という意味だったのか? 唖然とするだけである。アッ!!『小言甘辛日記』なのに辛口すぎて大言になってしまった。皆様、ごめんなさい。


◆2004/03/12◆ バーチャル世界の瓦版
 ここ数日ホームページというものを開設しようと奮闘している。経歴書や事務所概要などの小冊子つくりは、慣れているのだが、自分のホームページとなると少々肩に力が入る。自然体をモットーに仕事をしているつもりだが、何か精神的なものが違う。
 バーチャルなIT社会へのデビューだからなのだろうか。顔の見えないネット社会には注意を払って付き合ってきた。メールなどキーボードから打ち込まれる文字のみのコミュニケーションは、正直いって苦手なのである。手紙を手書きする際と比べると、明らかに精神的なレベルが希薄になるからだ。
 しかし、難しく考えず私をテーマとした「図鑑」づくり、バーチャルな世界で発行する「かわら版」と思い、あえて挑戦しよう。新たなる素敵な友人が増えることを願って。


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