州庵の小言甘辛放談



◆2004/07/29◆ 過激な運動になりつつある真田町合併問題
 過激な運動になりつつある市町村合併リポートをお届けする。ついに我が町で「町長リコール請求署名」が始まる。
 合併反対派の全国的にも珍しい2回の住民投票請求と議会での否決。H山町長の「今後、あらためて住民意向確認はしない」との強硬姿勢。法定合併協議会メンバーの丸子町での反対運動などと、完全に泥沼化している。この状況に激怒した合併反対派の住民投票請求のグループは、ついに、町長リコールの署名活動を来月の頭から始め成立させることを目指すという。町の現況を見ると有権者数の三分の一、3110人以上の署名を得ることができそうで、リコールの可否を問う住民投票が実施され、成立の可能性が高いと私は踏んでいる。
 ところで、リコール請求の署名活動は成立することを前提に、次の展開として町長選があることを想定の上、戦略を組むのが大人というものである。記憶に新しい町長リコールは、中学校建て替えで強制執行した滋賀県のある町だ。いくつかあった反対派が、町長が好きか嫌いかのレベルで手を組んでリコール成立、その後、町長選候補者の一本化に失敗し、現職の再選という「大儀なきトホホの市民運動」だった。
 合併問題で2回目の住民投票請求をした合併反対派(現リコール請求グループ)には、3つのグループが集合したものだ。その昔、3つの合併の勉強会があり、ひとつは過激なグループ、主婦がメインになり全町横断的なグループ、また、一部過激な部隊がいる高原でできたグループである。合併を賛否する住民投票を行いそれに従うという穏健派から、リコールまで視野に入れた過激派まで、温度差も3つのレベル。このうち、半分以上のグループは前回の町長選で、現在、合併推進を強力に進める現職のH山町長に投票したのである。
 ちなみに、3年前に行われた町長選は、現職のH山町長と元町職員で神主のO森氏の戦いだった。神主のO森氏は、父の呑み仲間として、この町を何とかしようと町役場で汗を流していた人物である。私の姉弟はアメリカに移住するやら、故郷の東京に戻るやら、私のように全国を旅するものやらで、私が信州に戻るまで、父にとってO森氏が息子のような存在だったらしい。この町に来るときも空き家を探していただいた人物で、お互い噂のみだったが、気が付けば酒を呑む仲になっていた。仕事柄、様々なまちおこしプロジェクトや選挙に関わってきた私は、O森氏の町長選にカタカナの肩書で参加し、彼の戦略を手伝った。町長選では、対抗軸として合併問題を極力取り上げようとした。O森氏も町民と話し合いながら真田町の未来を創ると訴えたが、現職は合併問題に意識的に殆ど触れず、明確な対抗軸としてクローズアップできなかった。
 町長選の後、しこりを残さないように静観してきたO森氏の後援会グループは、合併反対派、賛成派、町役場の新聞チラシ合戦、そして2回の住民投票請求否決など、異常な町の動きに対しても、じっとしていたのである。
 ところが、ここ1月、O森氏の後援会グループの動きがにわかに活発になったのである。そして、リコール請求グループは、この滋賀県の失敗を勉強したのか…O森氏の後援会グループと合流し、O森氏を担ぎ出したのだ。以前から、現職のH山町長と渡り合えるのはO森氏しかいないと、リコール請求グループ内で話題になり、様々な噂が我が町だけでなく上田市でも流れていた。O森氏の後援会グループの参戦で、町長リコールは確実に射程距離に入ったのである。
 さて、問題はリコール成立後の町長選である。O森氏が立つことは間違いないが、現職グループがどう出るか…。さらに、リコール請求グループが足並みを揃え「大儀」を見出せるのか…心配なのである。なりふり構わずリコールを請求するグループと、静観してきたO森氏の後援会グループが、H山町長打倒で組むのは理解できる。しかし、町長が嫌いというレベルから、合併という問題に真田町という名前がなくなるのは寂しいと感覚的な興味しかもたないもの、少子高齢化を冷静に理解せず国が悪いと決め付けるもの…様々な人々が手を組むのだが、その大儀は「真田町の自律と長期的なビジョン」でなければならない。そして、自律を選ぶ以上、一人ひとりの町民の責任が一層重要になるということに何人が気が付いているのか…。
 本当に大変なことになった。町議会は先の2回目の住民投票条例で勘違いした議員の行動により機能停止状態だ。H山町長は、この動きを当然察知し様々な手を打っているだろう。この町はどのようになるのだろう…場合によっては忙しくなる。酷暑の今年、8月頭から1ヶ月ほど、真田町は酷暑以上の暑い夏を迎える。


◆2004/07/18◆ 脱ダム宣言の正しい読み方
 ついにというか、心配していたことが起きた。先程、17日23時43分、長野県北部に大雨警報が発表された。
 何を心配していたかというと、平成16年7月新潟・福島豪雨という自然災害の我が県への影響である。活発な前線は、12日から三条市付近(長野県北部の数十キロ先)に停滞して、観測史上歴史的な豪雨を降らせているのである。しかし、新潟県の被害がここまで大きいのに、我が県では大気が不安定でありながらも、夏空が続いたため、殆ど心配せず反応が鈍かったのだ。そのうち、前線が南下して長野県北部に大雨警報が出るに違いないと…。
 気象庁は15日、12〜13日に発生し、今も甚大な被害が続いている新潟、福島両県の豪雨について「平成16年7月新潟・福島豪雨」と命名した。また、同庁は今年3月、災害の命名について庁内基準を設け、豪雨の場合は「損壊家屋等1000棟程度以上か浸水家屋1万棟程度以上」で命名すると定めたという。現在、新潟県内だけで浸水家屋が約2万5000棟に達し、死者は14人、行方不明者は1人となり、その殆どは70〜80歳代の高齢者たちである。依然4800人が避難生活を強いられている。
 新潟県は福島・群馬・長野3県の山岳部に囲まれた豪雪地帯である。今回は、前線がこの山岳地帯に停滞し、湿った空気が不安定となり豪雨を降らせているのである。この県は、古くから信濃川の氾濫が多く、治水・利水政策が行われ、様々なダムや堤防が整備されてきたのである。さらに、いいか悪いかは別にして、田中角栄が土木立県とした歴史があり、治水・利水行政の面から見た場合、かなりの先進県なのである。その新潟県がこのような大災害に直面しているのだ。
 我が県は、この3年間ほど、くだらない議論に時間を費やしてきた。「脱ダム宣言」という知事の治水・利水政策だ。何時の日か、この政策がガラクタに類するものであり、お笑いではすまないことになると心配しているのは私だけだろうか。
 その昔、知事が会見した有名な演説「日本の背骨に位置し、数多ある水源を擁する長野県に於いては、出来得る限り、コンクリートのダムを造るべきではない」は、「日本の背骨に位置し=『山岳地帯で降雪量も多く雪解け水で増水することもあり、また、山岳地帯特有の気象が多く』、数多ある水源=『数多ある水害の源』を擁する長野県に於いては、出来得る限り、コンクリートのダムを造るべきではない=『コンクリートのダムも含め、真剣に治水・利水を検討し、場合によっては造らねばいけない』」と、読むのが良識のある大人というものだ。だいたい、山岳部が県の面積の殆どを占め、河川の全長に対し標高差が日本一の地帯で、しかも、山林をいち早く放棄した県で、山の保水能力という迷信のようなものをメインに据えるとは…トホホのホではないか。
 環境・景観主義の工学者たちが行った「基本水高」の机上の理論は、100年に一回か50年に一回という確率論に陥っていたのである。しかも、その学者たちは長野県の特徴と治水・利水の素人といっていい。さらに、客観的に森羅万象を俯瞰する専門家が学者たる姿勢であるはずなのに、有明海干拓や四国吉野川堰の反対運動のムーブメントに乗り、運動家のようなアマチュア学者達ときている。実際、脱ダム宣言の現実的な計画として、河川内保水地なるミニダムを造るというバカな話である。
 気象という自然科学を軽んじ無視するものは、自然災害に命を落とす。幼児思考の知事が集めた学者たちは、知事の好む答申を出し、この県を自然災害弱県にしようとしている。このような幼稚症の連中に、県民の生命と財産を任せていては、危機に晒されているというより、危機に直面させられていると言うべきである。大袈裟ではない。実際、この3年間に豪雨災害がなかっただけなのだ。
 と…、日記を書いて(18日03時頃)いたら「警報」が「注意報」なった。幼稚症の皆さんの政治生命、学者生命が延びたようだ。
 ところで、今日、福井県が豪雨でかなりの被害を受けているという。被害を受けた方々の心痛を測ることもできないが、希望を捨てず、復興していただきたい。


◆2004/07/17◆ 温泉ファンが物申す「白骨温泉問題」
 この一週間、「白骨温泉の市販入浴剤着色騒動」を静観していたが、温泉ファンの1人として、少々、物申す。
 白骨温泉は400年以上の歴史を持ち、加温や一部で温水投入はあるものの、13軒すべての旅館がわき出る湯を循環せずに使う「源泉かけ流し」である。湯船に入る時は透明だが、しばらくたつと青みを帯びた乳白色に変化するのが特色で、旅館経営者は「日本一と自慢できる泉質」と自負していたという。乳白色の湯というイメージに囚われすぎた結果、草津温泉の市販入浴剤で色を付けるというお粗末な行動を招いた。客に言わせれば「言語道断」であり、信州白骨温泉のイメージが木っ端微塵となったのだ。
 しかしながら、少し騒ぎすぎではないだろうか。
 今回の件は、ここ数年のY印乳業やM菱自動車などの「事実を隠し客を騙す」という事業者としてやってはならない顧客への詐欺的な行為と見ると、同レベルのものだ。マスコミもこの観点から責任を追及している。インターネットの様々な掲示板などを覗いていても、似たような観点で、M菱自動車などを引き合いに過激な書込みが見られる。一般的な書込みには、「市販入浴剤で着色しているのなら、自宅の風呂で十分。なにも白骨まで行くことはない」などのものが多い。まぁ、熱烈な温泉ファンが騙されたと思い込み、一寸、過激に怒ったと構えればいいことなのだが、論点がずれていないだろうか。
 もう少し冷静でマシな議論をしたいが、如何だろうか。どの論評を見ても、大切な視点を指摘していないように思える。それは、温泉・旅館事業者と温泉ファンも「温泉の源泉」という物の本質を忘れてはいまいか…ということなのだ。
 白骨温泉には古くから使っている源泉と、今回、問題になった源泉など数本ある。当たり前なことなのだが「源泉は自然そのもの」であり、成分や色などは刻一刻と変化している。未来永劫、安定しているものではないのだ。源泉というものは、地震が発生すればお湯が涸れる場合があるし、大雨が降れば地下水の変化で湯の成分が薄くなる。白く反応する時間も変わってくるのである。あの有名な四国・松山の道後温泉ですら明治から大正の頃、地震で涸れているのである。
 随分前からの噂だが、草津でも、数件の旅館において市販入浴剤で着色しているという事を聞いたことがある。この場合も、複数ある源泉の中の幾つかが変化したと考えるのが自然だ。しかしながら、責任を追及されたとしても、地元の温泉成分から作った入浴剤を使っているので、開き直ることができるだろう。色を付けたというレベルでは同じではあるが…。
 こう考えると、白骨温泉の乳白色の湯も、何時、透明になったり他の色になっても、何もおかしくない事実なのだ。白骨温泉の源泉は乳白に色が変化しずらくなっただけで、白骨温泉に変わりはないのである。最新の報道を見ると、入浴剤を使った旅館経営者は「同じ温泉で内湯が白いのに露天風呂が透明なのはおかしいと、客によく言われ、何とかしたいと思った」と、客の指摘が引き金になったことを認めているという。こうなると、温泉という自然の産物を理解していない客の方にも問題があるのではないか。
 それにしても、このような事件になる前に、もう少しましな対応ができたはずだ。事業者であれば、前述した「源泉は自然そのもの」であることは十分認識している。白くならないぞ…と、恐怖心に近いプレッシャーに思わず、源泉は日々変化しているという当たり前なことを観光客に伝えていればすんだことだ。最近、色が付きにくくなったので、しょうがなく白く色をつけていると情報公開し、自前の源泉に付着する白濁物質を混ぜれば良かったのである。場合によっては、「乳白色の湯以外に透明の湯が出てきたので選択肢が増えましたよ…」と、売り込む手もあったのではないか。
 都市部と地方の「責任」の取り方、構え方の違いから出てきた騒ぎだと考えることもできる。報道でのコメントを見ると分かるが、おじさんたちの田舎感覚が伝わる「悪気もなくしていた」という責任に対する鈍さは事実のようだ。また、ここ数年続いている温泉ブームの客たちも、このおじさんたちに「白くなくては白骨ではない」と思い込ませたのである。
 村役場や温泉旅館組合には「裏切られた」「残念」などの苦情や問い合わせが1000件以上殺到し、宿泊キャンセルも相次いでいるという。平身低頭の温泉関係者は「言い訳できない」「認識が甘かった」と悔やんでいるらしいが、時既に遅く問題が大きくなりすぎた。
 いま行われているバッシングが続けは、白骨温泉は確実に寂れてしまうだろう。今回のお粗末な事件に関わらず全うな商売をしてきた老舗旅館(白骨温泉旅館組合が黙認してきたとすると、この老舗旅館の耳に情報が入っていたとも考えられるが…)もあるようだが、白骨温泉の未来には暗雲が漂っている。
 私のスタンスとしては「白くなくても白骨温泉でしょ。色を付けるなんて田舎っぽい発想で、詰まらないことをするんじゃないよ。恥だから」と、おおらかな気持ちで見守っていくつもりである。


◆2004/07/09◆ 異常気象というよりも…暑い夏が不気味だ
 この暑さ―、何とかならないか。昨日、出演していたテレビ信州「ゆうがたGet」の天気予報コーナーで、上田市が38℃に近い酷暑を記録し、日本一暑い都市だったと伝えた。
 今年は不思議な言葉「猛暑の梅雨」がメディアで乱舞している。この不思議な言葉に違和感を持つ私は、既に梅雨は明け猛暑の夏に入っていると、頭を切り替えている。
 昨夜、インターネットで「気象庁は7日にも梅雨明け宣言を検討した(毎日新聞2004年7月8日13時25分)」という記事を見つけた。そりゃそうだろう。この異常気象の状態を、ただ見届けているわけにもいかんわな―。記事には、「宣言を見送った」とあり、その理由は、「東日本だけが太平洋高気圧に覆われる変則的な気圧配置で予想がしにくい」「12〜14日に雨が降ると予想される地域がある」と、続いている。記事にコメントを寄せた気象予報士は「普通、梅雨は西から明けるのに、いきなり関東だけとは言いにくいだろうが、私なら梅雨明け宣言する」とあった。全くその通りである。
 しかしながら、「普通、梅雨は西から明けるのに、いきなり関東だけとは言いにくい―」という子供じみたコメントは何とかならんのだろうか。自然科学では、「火山活動」や「地震」などと並び、一番難しい分野が「気象」である。気象予報士も科学者の端くれ、もう少し科学的に説明できないのだろうか。気象学的にはこれこれこういう意味で予報を外してしまった…、そして、自然の大気は安定・不安定が入り乱れ、いくら専門家でも間違えるときがあると伝えるべきなのだ。
 今年の梅雨入りは関東甲信、東海地方が6月6日、東北地方が同7日で、いずれも平年より2〜5日ほど早かった。一方、梅雨入り宣言とともに発表した気象庁の長期予報では、太平洋高気圧が例年より北に張り出し、暑い夏になると予報していた。その長期予報が早い時期からドンピシャと当たり、結果、「猛暑の梅雨」という変な言葉が出現したのでは…と私は思っている。例年なら6月は梅雨前線が日本列島に沿うように現れ、活動が活発になる。が、東日本から北日本付近が太平洋高気圧などに覆われ、その影響で梅雨前線が南北へと縦にシフトしてしまい、西日本から九州にかかる変則的な形が続いたのだ。さらに、高気圧の影響で前線が消滅した日も続いたのである。
 例年の梅雨時期のイメージとは程遠い「猛暑の梅雨」は、さまざまな記録を樹立する。東京では6月の平均気温は23.7度で平年より1.9度も高く、日照時間も42%増。最高気温が30度を超える真夏日が、何と、8日もあった。6月には観測史上最多の5つの台風が発生したのだが、降水量は平年の68%、112.5ミリしか降らず、7月も雨は1日だけ。東北の一部を除き、ほぼ同様の傾向で、6月の平均気温は平年より2度前後高。降水量も台風8号の影響で大雨が降った静岡や、千葉などの一部を除いては、軒並み平年を下回っているという。しかし、2つの台風が上陸し局地的な大雨があったので、首都圏や中部圏の水がめとなるダムの貯水率は90〜100%の所がほとんどらしい。当面、渇水の心配はなさそうだ。数字だけ見るとカラ梅雨とは言えないが、一般の人がイメージする梅雨という感じではないのだ。
 平年の梅雨明けは、関東甲信と東海が7月20日ごろ、東北が23〜27日ごろだ。天気図を見ても、梅雨前線の活動が弱いため東日本では、しばらくまとまった雨が降りにくそうだ。来週にかけて真夏日も多くなるのではないか。梅雨入りを宣言した以上、梅雨明けも宣言しなくてはならない。気象庁の苦労は理解するが、私なら「7月頭に梅雨明けした」もしくは「東日本には梅雨がなかった」と原稿を書くだろう。
 話は変わるが、私の記憶では、猛暑・酷暑の夏にいろいろな大事故、大事件があったように思う。猛暑・酷暑の夏は、人も機械も狂わしてしまうことがある。例えば、19年前の御巣鷹山に墜落した日航ジャンボ機墜落事故。あの年も暑い夏だった。今年は何もない平穏な夏であってもらいたい―。


◆2004/07/06◆ 真田町合併問題リポート「滅茶苦茶な採決」
 市町村合併リポートをお届けする。我が町の「合併問題」が最悪のものになった。既に、マスコミで報道されているが、7月5日の臨時議会で、全国的にも珍しい2回目の住民投票請求の審議が行われた。この請求に対し、会議で「不要」の意見書を付けて条例案を提出したH山町長。「今後、あらためて住民意向確認はしない」との考えを強調し、上田市域(上田市、丸子町、武石村)との合併協議を強力に推進する立場を変えなかった。
 ところで、反対派の1回目の住民投票請求は、昨年、町長と議会の合併推進派の否決によって葬られた。採決では、議会が2分して賛否が拮抗していた。今年行われた最新の住民意向調査でも、賛否は五分五分、若干、賛成が多いという状況である。H山町長の作戦は、この状況を踏まえたものだ。
 今回、住民側が提出した条例原案は投票実施日を「施行から90日以内」としていた。審議では、合併推進派議員が法定合併協議会の進行状況を住民に周知徹底するため「120日以内」に延ばす修正案を提出した。この修正案のねらいは、2回目の住民投票請求という事態に危機感を持ち、住民投票を実施して賛成多数の結果を導くためというものだ。修正案の採決になった。賛成派、反対派ともに、住民投票が行われるということで利害が一致したのだろう、賛成多数(10人)で可決したのである。ところが、この議決のとき不思議な事態が起こっていた。なぜか住民投票の反対討論した議員数人(3名ほど)が、賛成・起立してしまったのである。日頃、与党的な行動を取り、合併反対派の話を一言も聞かない議員たちで、何事も起立して議事を進めようとする癖が、裏腹に出てしまったというテイタラクな話である。
 町長は青ざめ、議場は一瞬凍りついた。議員たちは「何が起こったの???」と、修正案が可決されたことに動揺する。この状況の中、議長が条例原案の採決を行った。すると、またまた不思議な事態が起こる。賛成議員は激減し2人、結果、否決となる。修正案に賛成してしまった推進派議員が、自分の勘違いに気が付き反対に回ったとしても、議会を2分する数となり、場合によっては、原案が議決されるはずだった。どうやら、修正案に賛成した議員たちは、修正案の可決で、住民投票請求が既に決まってしまったと勘違いしたようだ。
 お分かりと思うが、原案が否決された以上、修正案も無効となる。
 新聞報道のコメントに、こんなお笑いがあった。「勘違い。住民投票には賛成だが、修正案を可決したため、原案に賛成する必要はないと思った」との議員の話だ。おいおい勘違いじゃないだろう…議員必携ぐらい読んでおけ!まるで小学校の生徒会レベルの田舎議会じゃないか。しかしながら、議会は民主主義の基本、笑い事ではすまない事態なのだ。
 議会を傍聴していた請求代表者は「広く町民の意見を聞くべきなのだか、民意無視の町長に対し、今後、リコールなどの対応を取りたい」と態度硬化。さらに、「不明りょうな採決をした議会は自ら責任を取るべきだ」と呆れ果て、怒り爆発。まぁ、合併反対派の住民投票という考え方は、与党的議会に不信感を持っていて、はじめから信用していないのである。
 我が町始まって以来の「議会解散に値する勘違い議決」をした町議会。勘違いした議員たちの政治生命は終わったのである。今後、町長のリコール騒ぎに発展すると思うが、その前に、議会を解散し町議選をするべきである。合併反対派の住民投票請求グループも議員を送り込んで、与党的議会を逆転させ、自律プランを研究、審議するような真っ当な反対運動を起こすべきだ。如何だろうか。


◆2004/06/30◆ 参議院選挙政見放送をCM作家として分析する
 今、某公共放送が放映している参議院選挙比例代表の政見放送を見ている。政見放送も変わったもんだ…と思いつつ、大阪でCMの構成台本を書いていた頃を思い出しながら見てみると、これがなかなか面白い。
 M主党は制限時間内を、女性衆議院議員と生真面目代表の掛け合い、それから代表の独演という2本立ての構成。掛け合いの演出は、女性衆議院議員が左に座り、代表をゲストにインタビューするワイドショーという感じだ。たしか女性衆議院議員は、某国営放送の解説委員だったはず。もう1本の代表独演は、生真面目のキャラクターからか…肩に力が入りすぎだった。
 続いて、J由M主党。イケ面サラブレッド幹事長の紹介で、比例代表の候補者が1人ずつ数十秒のコメントをするという構成のみ。全国区のお坊ちゃまアイドル幹事長は、画面の右側に出ずっぱり。幹事長がしゃべる候補者の紹介は、選挙ポスターに使っているキャッチフレーズのようだ。一人ひとりのコメントも面白かったが、必ず最後にイケ面幹事長の「頑張りましょう!」という呟きのような気合が入る。関西ローカルのベタベタ演出のCMを見ているようだ。思わず笑ってしまったのは、某学者大臣候補者の「叩かれても叩かれても改革!」とのキャッチフレーズ…。
 最後のK産党は、某舞台女優さんとS委員長さんの掛け合い、I書記局長の紹介で目標当選者数と思われる比例代表の候補者が数十秒のコメントという2本立ての構成。1本目の掛け合いが傑作。S委員長さんは、淡々と分かりやすいしゃべり方で有名だが、某舞台女優さんのリアクションが作りすぎで、殆ど、海外資本の某生命保険会社CM状態。各候補者の演説は、I書記局長が顔出しせず、候補者の氏名と職業のみを紹介、候補者一人ひとりが数十秒のコメントをしていた。
 政見放送の最後にこんな案内があった。「この放送は、公職選挙法に基づいて、届け出順の政党の順番で放映しました。また、決められた演出から、各政党が選んで収録しました」と。ほほぅ。公職選挙法も、知らないうちに随分と変わったようだ。残りの政党は、明日の放送らしい。見なければ…。
 ところで今回の選挙は「年金選挙」といわれている。先の国会では、年金改革で「国会」が「滑稽」となっていた。
 野党徹底抗戦は笑えるもので、特筆されるのは「参院議長の不信任決議案」と「議長挿げ替え散会宣言」だった。国会闘争の古き手段、「長時間演説」や「牛歩戦術」は、既に見飽きていたので、野党の新手に関心を持ち茶番劇を見ていた。しかし、与党の方が参院運営規則などの知識と対処で、さすがに一枚上手。まぁ、野党の戦法が、歴史に残るものだったということでは、面白いものを見せてもらったと思う。
 ところで、「長時間演説」や「牛歩戦術」、「強行採決」などの戦法から、ぼちぼち卒業してもらいたい。なぜなら、我々国民が選んだ代議士たちがマヌケな姿に見えるからだ。代議士として当選する以上、良識のある紳士淑女であり、専門的知識と能力、教養にあふれているはずだ(と、思いたい…)。これらを使うわけでもなく、時間を浪費するだけで、TV画面も見るに耐えない。結果、国民がシラケ、呆れ果て、政治離れを引き起こしてしまう。今回の選挙の投票率を心配するのは私だけだろうか…。


◆2004/06/26◆ 某サロンの事務局の末席スタッフの「南木曽ツアー」反省記
 昨日、あるサロンの事務局の一員で、南木曽ツアーに行ってきた。「サロン」と書くとなにやら怪しげな感じだが、至って健全な「集まり」である。ある本の出版祝パーティーの参加者が、この集まりを作った。
 その本とは、呑み助たちのエッセイ集である。7年ほど前、動物学者であり陶磁器評論家の父が、以前からしたためていた出版企画を、呑み仲間の酒宴において提案。するとすんなりと賛同を得て、「酒の器 私の逸品(信濃毎日新聞社編2000年)」という本になった。呑み仲間が呑み仲間を呼び、県内の著名人ら64名一人ひとりが、酒、やきもの、人生観、酒器の思い出など、さまざまなエッセイを書き、愛用の酒器の写真とともに紹介。コラムに長野県を代表する陶芸家と父の対談、信州のやきもの解説、やきものミニ辞典などを加え、編集した。カエルの子はカエルというか…私も骨董やアンティークが趣味で、その上、呑み助、当然のごとく取材、撮影、編集レイアウトに参加することになった。
 出版祝パーティーは長野、松本2会場で開かれ、松本会場はエッセイ集のとりを飾ったK條香月・真派青山流家元が幹事としてご尽力頂き、参加申し込みが殺到。急遽、会場を駅前の懐石料亭「Nとびら」から「扉温泉・M神館」に変更となった。内容は、温泉に浸かり、一流の伝統芸能を楽しみ、県内著名作家のぐい呑みを頂き(お土産として持ち帰れる)、そのぐい呑みで協賛酒蔵のこだわりの酒を味わい、季節の懐石料理に舌鼓、追加会費を払うと宿泊までできるという、徹底した「文化的出版祝パーティー」となった。
 中南信を中心に経済、芸術、官、学、メディアなど各界の40〜50人の参会者らから、「是非、継続を」との声が大きく、以来、K條香月先生を主宰に、父が会長となり「サロンディ香月」として継続している。私のような青二才が参加していいのか…疑問が残るが、松本TーリストホテルのA正長氏とM神館のS藤茂行氏が中心の事務局末席に座り、サロン運営を手伝っている。
 今回が5回目の開催となる。少々、趣を変え、遠足のような日帰りツアーという企画になった。深緑の木曽路へと向かい、南木曽町の日本伝統工芸正会員・O椋榮一氏の工房を訪ね、南木曽の滝見温泉で昼食して一風呂浴び、全国に先駆けて町並み保存運動が進められた妻籠宿を見学、帰路、奈良井宿で杉の森酒造に立ち寄るというスケジュールだった。
 お酒が入り、肩書抜きのお付き合いとなり、蘊蓄のある会話が楽しい充実した時間をすごすことができる。が、如何せん凄い肩書の方だらけなので、事務局として仕事をするにも酒の力が必要となる。朝から呑み続け、アルコールで脳ミソの駄洒落回路にスイッチを入れ、あとは失礼のないようにしながら、ひたすら楽しむことにしている。
 私なりの今回の反省。父の鞄持ち秘書も務めなければならないのだが、昼、O椋工房へ着く前に、既に父が酒で「出来上がって」しまったことだ。無理もない。真田と上田からの出席なので、7時50分松本駅集合とすると、朝4時起きの準備・出発となる。バスには旨い酒が用意してあり、ついつい手が伸びてしまう。チビチビやるのだが、バスの揺れが心地よく、朝8時過ぎから呑むのだから、仕方がない。
 この場を借りて、松本歯科大名誉教授のE重夫先生にお礼申し上げます。言い訳ではないのだが、一会場の中で事務局と鞄持ち秘書を兼務することは可能なのだが、ツアーとなると点呼確認、会計などがあり、どうしても不可能。そこで、父のお弟子さんのE先生に、父の面倒を見て頂いた。大正生まれの師匠と昭和一桁のお弟子さんの本物の師弟関係という、羨ましい光景を見た。ツアー終了直前、E先生との会話では、先生と私の父への感想がぴたりと一致する。どんなに出来上がっても、挨拶では皆さんの笑いを取り、千鳥足で、少々、呂律が回らなくても、蘊蓄の効いた会話で参会者を持成している。「大正生まれには敵わない」と、枝先生と心底、感服したのだ。
 次回、松本に訪れたらE先生へのご挨拶を忘れてはならない。


◆2004/06/19◆ この一週間、講演で忙しかった
 タイトルは「日記」と称しているのだが、この1週間、仕事に追われ、日記を書くのを後回しにしてしまった。趣味のサイトのコンテンツUPだけは何とか続けていたが…。そこで、5月25日の日記と同様に、どのような1週間を過ごしたのか、日を追って箇条書きにする。ちなみに、知人数名に"箇条書き日記"の感想を聞いたところ、「小言日記と称している以上、安藤節で"世の中を切れ"。手抜だ…」とか、「出来の悪いサラリーマンじゃないんだから、日報をまとめて提出するようなことをするんじゃない」とか…、なかなか手厳しいご意見を頂いた。ご意見はごもっとも。しかし、どんな仕事に関わり、何が進行しているのかを紹介するのも、日記の最低限の役割(たしかに日報レベルだなぁ…)である。少しでも「小言」を交えながらの"箇条書き日記"とするので、ご勘弁を!

12日●隣組の花見会に出席。過疎に悩むこの隣組では、隣人でナチュラリストのKさんと我がアトリエは、貴重な移住者として歓迎されている。移住歴はKさんの方が数年先輩で、彼が引っ越してきた年に歓迎会が行われたとのこと。今では、隣組の親睦会として、花の美しいこの季節に「花見会」という酒宴を開催している。会場と幹事は隣組の班長が企画・担当するのだが、なぜか、必ずと言っていいほど毎年同じメニューが登場する。それは「酢豚」なのだ。数年前、なぜ、酢豚なのか…と聞いてみた。すると「豪華で美味しいじゃない」と…。戸主の平均年齢は60を超えている。どうも、この地域のその年代の味覚の原体験に近いようだ。一寸、待てよ。自治会の呑み会で出てくるオードブルと称する1皿があるが、酢豚やエビチリが必ず入っている。たしか農協の仕出し部が納入していた…。やはり、すりこまれた食文化だったようだ。
13日●午前中から昼過ぎまで、上田の生島足島神社で、お宮参りの撮影。午後は現像などの段取りで上田市内を行ったり来たり。昨年、七五三の撮影を依頼された方からの紹介だ。この日、大安吉日で、生島足島神社の駐車場はかなり混雑していた。お宮参りの参拝客が多い多い。この国は、本当に少子化なのか…と疑ってしまうほど。私に撮影依頼をされたご夫婦は30歳才前後だったのだが、20歳前後としか思えないご夫婦が多く、これにはビックリした。
14日●京都の博物館展示施工会社から、都内某所にできる綾瀬川の学習館プロジェクトを依頼され、ここ数年、プランナーとして動いている。今年に入って、建設の段階まで来たが、その調整でバタバタ。この件で、翌日、東京出張となる。
15日●朝から東京に移動。西新宿にある水プラントや河川整備などで知られる大手コンサルで打合わせ。博物館など文化施設のプロジェクトは、最低でも3年は掛かる仕事で、このコンサルとのお付き合いも長い。スパンが長く大きなプロジェクトでは、呑ミュニケーションが大切になる(というより酒飲みが偶然出会うのかもしれない…)。酒を酌み交わすと充実した一時となり、文化的な教養人と仕事をしていると再認識する。文化施設建設などの面倒くさい仕事に関わる人々には、半端じゃない趣味人が多いのだ。そんな呑み会で意気投合してしまったのがプロジェクト・チーフ・企画室長のF澤さんだ。仕事で出会ったのだが、公私共々のお付き合いだ。最近は「呑ミュニケーション」という言葉が死語になりつつあるようだが、相手の個性を知り、信頼を形成して友人となり、場合によっては新しい何かがスタートする…と思うと、大切な交流と思うのだが…。
16日●昨日の出張の打合わせに基づいたプランの修正作業と、京都への連絡に追われる。都内某所に建設中の綾瀬川の学習館プロジェクトは決して大きなものではないが、市民が川を再認識し、水を大切に思い、さまざまな交流と活動が展開される施設になってもらいたい…と願いつつ仕事に没頭する。
17日●朝から、県内の某所のテーマ・ミュージアム・プロジェクトの企画フレームを起こす。9時頃、この件で長野市のN津氏がアトリエにやってくる。お付き合いは、まだ浅いのだが、笑顔とパワー、スピードと切れを感じてしまう。さまざまな顔をお持ちで、実に面白い方とお見受けした。近々、呑ミュニケーションをせねば…と思ってしまう。そのN津氏から、彼が副理事長を務めるNPO法人・日本古民家再生推進機構の講演を依頼され、その打合わせもあった。N津氏が初めて我がアトリエに来たとき、話題がいろいろと広がり、古民家再生というテーマに飛び火した。長年、博物館のプロジェクトで古建築(城郭や社寺仏閣、歴史的な西洋建築など)や歴史的町並みなどを取材し、展示ストーリーの中に分かりやすく紹介・解説するコーナーなどを作ってきた。また、滋賀県の信楽にある江戸後期の草家や、京都西陣の町家、京都五条の洋館など、知人の古民家再生にも関わってきた。このアトリエも、昭和4年に建てられた古民家だ。その延長線として、上田の柳町の町並み再生を密着取材している。そんな話に興味を持っていただいたようだ。夜は、真田町グリーンツーリズム研究会に出席。この研究会の活動は既に5年。ヨチヨチ歩きだが着実に進んでいるようだ…?私としては5年も経てばヨチヨチ歩きはいかんでしょ!と思うのだが、長閑な真田町の素朴な住民にはピッタリなのかもしれない。
18日●午前中は、本日の講演と、ある商店会のオブザーバーとして出席するための準備。午後、須坂のイタメシ屋さんで、我がHPの「一八料理」書籍化計画(ホントかいな???)と、知人のライターK氏の経歴に使う写真撮影の打合わせ。16時から、須坂の古民家で行われたNPO法人・日本古民家再生推進機構の技術交流見学会で講演。概要は、"古民家に住み始めた最初の人種は貧乏クリエーター(陶芸家が多い)で20年以上前のこと"、"8年ほど前に県が作った古民家データーベースと当時の市町村IターンUターン施策"、"古民家の骨董的価値について"、"骨董屋と古民家の関係。最近では都内の骨董屋で古民家販売をしている"、"上田市、柳町の古民家再生と町並み再生について。古民家の商業施設というニーズ、商業施設にすることで古民家を再生"など。質疑応答後、上田市にとんぼ返り。19時過ぎから、松尾町商店会役員会に商店会活性化のオブザーバーとして出席した。4月22日の日記に書いた知人S氏から依頼された件だ。上田市の中央商店街は松尾町と原町、海野町とあるが、今、上田の中央商店街は大変な曲がり角に立たされている。この7月、上田駅から西へ800mにあるジャスコがリニューアルし、延べ床面積がこれまでの数倍という巨艦店としてオープンする。また、夏には82銀行松尾町支店が撤退、地元百貨店の旧ほていや跡に14階建てのマンションが2年後にオープン、さらに、駅前にビジネスホテルチェーン東横インが進出…と、この2年で中央商店街周辺の環境が激変するのである。他の商店会は空洞化して久しいが、松尾町商店会は駅に直結するという地の利と、各店がこだわりを持った商いに徹していて健闘している。冒頭、こんな話をした。「全国の商店街を見ると30年経って空洞化してきた。モータリゼーションの影響だと言ってしまうと短絡すぎると思う。たしかに、顧客の価値観と商業サービスが多様化し分かりにくくなっているが、30年というスパンに『何か無くなったもの』はないか?歴史や文化の中からコンセプトを見出して30年かかって元気になった街は、国内にいくつもある。その街との違いを探すには、この街や商いの歴史・文化をもう一度おさらいし、伝統的な知恵の中に、糸口があるような気がするが…。決して回顧主義ではない答えがあると思う…」と。日々、姿が変わっていく状況に、各商店主の危機感は強く、さまざまな意見が飛び交った。話は、何故、各店がこだわりを持った商いに徹してきたのかということに展開し、現状でも客層がぶれていないことや、3代にも渡ってお付き合いのある顧客の話、高齢のお客の待合場所となっているお店など…面白い方向に広がっていった。会合の後、企画担当役員の知人S氏に感想を聞かれたが、「これから長いプロジェクトになるかと思うが、大丈夫。いけますよ」と述べた。
19日●呑み仲間のH氏を誘って、11時頃からKURA連載「駅前の鞄」の取材に、牟礼村へと向かう。国道18号にある信越線牟礼駅の入口交差点に、肉屋さんが営む食堂を発見。率直に「美味くて安い」という食堂で感動する。その後、三水のサンクゼール・ワイナリーに寄り、黒姫駅周辺を「蕎麦・蕎麦・蕎麦」と言いながらウロウロするが、時間帯が悪かったのか、3軒もの蕎麦屋は到着した途端に「準備中」となってしまった。残念至極。

 という一週間だった。


◆2004/06/11◆ 真田町は群馬県嬬恋村と合併する手もある
 ここ数日、鬼の霍乱なのか…体調がすぐれなかった。口内炎が出たと思ったら、扁桃腺あたりが痛くなり、発熱。仕事の疲れからなのか、肩こりが最悪になり、歯が浮いて奥歯が痛い痛い。薬を飲んで体をだましながら仕事をしていた。一昨日あたりから、ようやく体調が戻りつつある。
 昨日の昼頃、呑み仲間のH氏から電話が入った。話では、仕事が休みなのだが家にいると畑仕事に駆り出されるらしい。そこで、別荘(我がアトリエ)に避難するので宜しく…という。ならば、体調もほぼ全快になったので、鳥居峠を越え群馬県嬬恋村にある新鹿沢温泉にでも行くか…と答えたのだ。以前から気になっていた宿なのだが、新鹿沢温泉に大正か昭和初期の文化財級といってもいい和風建築の旅館がある。そこへ日帰り入浴に行こう!という提案に対し、興味をもったのか、H氏は一発OK。彼は温泉管理士という資格を持ち、休日には県内各地の温泉を訪れる温泉通。しかし、この旅館は知らないらしい。
 アトリエから嬬恋村の新鹿沢へ向かうには、国道144号線を数分北上し鳥居峠(6月5日にUPした野点珈琲の「滝の入沢」参照)を越え、万座鹿沢口方面に走ればいい。距離にして10キロ前後のところである。
 真田町から鳥居峠を越え嬬恋村に入ると、なぜか国道が綺麗になり、森が美しい風景になる。いやービックリする。本当に国道の路面や路肩の荒れ方が違うのである。しばらくすると、裏から見る浅間山を背景に畑が見えてくる。高原野菜の広大な産地が目の前に広がり、農家もすごい屋敷だ。我が町の菅平はグラウンドとスキー・ゲレンデと畑が混在し、バブル期の面影が残ったホテルが乱立しているが、そんな光景とは明らかに違う。昼飯時だったので、新鹿沢温泉にある「けんちゃん食堂」という暖簾をくぐる。ここでまた驚く。平日なのに客客…。公共工事の工務店の人々、様々な業種の営業関係の人々、そして、こざっぱりとしたファッションの農家のお嫁さんグループ。この国は不景気だと言われて何年経ったのか…明らかにこの村は不景気ではない。
 群馬県嬬恋村は約15年来、農業所得全国ナンバーワンの村だ。農家の子供たちの帰農率も高く、花嫁が嫁いでくる率も日本一。広大な畑には、いち早く大型トラクターなどが導入され、機械化による効率化された営農は、高原野菜を主力とした一流ブランドを作り出した。数年前、メディアによって紹介され、全国各地からの視察が絶えない。
 町おこしの仕事の関係から、20年ほど前から注目していた所だ。H氏は某スポーツメーカーのトップ営業として関東一円を歩いてきたので、この村の景気と文化性の高さは良く知っている。ラーメン定食を食べながら、「やはり違うな」、「たかだか数キロのところにあるのにな」と会話が続く。
 その昔、真田町も山口村と同様に、群馬県嬬恋村と越県合併をしたらどうだろうか…と、ある合併勉強会で講演をしたことがある。なぜなら、我がアトリエがある大日向という集落や菅平高原、鳥居峠の麓にある集落・渋沢は、以前から、この村との交流があり、嬬恋村の人々は一番近い12万都市の上田市に買い物に来る。その上、広域消防行政では嬬恋村からの救急搬送は上田市の医療機関なのである。この村に来る度に、私の考えは間違っていないと確信する。
 「嬬恋高原ブルワリー」で美味しい地ビールとソーセージで一服するが、ここも、客客客…。「うーん」と唸りながら、目的の新鹿沢温泉「鹿沢館」へと向かう。昭和9年に開業した老舗の旅館は、自噴泉のかけ流し温泉だった。湯の花が漂う炭酸水素塩泉の優しいお湯は、体の内側から温まる最高のお湯。ポコポコと心地よい音を聞きながら、ふと、「アトリエをこの村へ移すのも手か…」と呟くと、一緒に入っていたH氏も、「その手もあるなぁ…」と答えてきた。


◆2004/06/09◆ アメリカ考…西側諸国は…
 今朝、某新聞の朝刊の国際面に、気になる記事があった。某通信社ワシントン支局長のレポートなのだが「現地報告−アメリカ考−2004 『西側』はまだあるのか」と題したものだ。この見出しを見たときは、そりゃそうだろ…東西冷戦が終わって何年だ?と高をくくっていた。しかし、国際政治の近代史を分かりやすく解説しており、これからの国際政治は、なかなか難しいのだろうなぁ…と思ったのだ。
 内容は、「イラク戦争前からの米欧の亀裂が容易に癒えないであろう…」というものだ。ここ1月、ワシントン市内に造られた第二次世界大戦記念碑の除幕式、ヨーロッパ戦線の帰趨を決めたフランス・ノルマンディー上陸作戦60周年記念式典、シーアイランド・サミット、故レーガン大統領の米国葬など、「西側結束」を誇示する行事が目白押しなのである。これらを意識してか同時期に、「西側はまだあるのか」と題した会議が米国のフィラデルフィアで開催されたらしい。その中で、ある歴史学者が「西側」という言葉の誕生の経緯を「冷戦期に孤立主義の米国を欧州につなぎとめ、当時のソ連に対抗すべく両者を一体化させる〜知的正当化〜で生まれた言葉に過ぎない」と解説したという。レポートは、「第一次世界大戦後に国際連盟を生み、民族自決原則を打ち立てたウィルソン米大統領の言葉からは、国際主義という概念はあっても、西側という概念は見受けられない」と続けている。さらに「当時は、米国をつなぎとめるため、英外務省がひねり出した『英米・特殊関係』という概念が『西側』の概念のルーツとなった。しかし、米側は英国やフランスを『不完全な民主主義国』であり価値観を共有しない国家だとみなしていた」という。
 これには驚くばかりだ。たしかに、民主主義国家という理想を持って、3世紀も満たない歴史で超大国となった米国から見れば、『英仏を不完全な民主主義国』と見ても仕方がない。が、「国家の歴史は偉大な知恵」であり、歴史が浅い米国が、英国やフランスにそのような態度をとっていいのだろうか。イラク戦争前に米国大統領が、フランスとドイツに対して発言した「古いヨーロッパ」という言葉は、このような近代史観があってのことだったのだ。
 私は、米国と旧ソ連を「ある意味の実験国家」と見ることがある。崩壊した旧ソ連は、西欧から中央・東アジアなどの歴史ある諸国が、計画経済・社会主義によって誕生した実験国家だった。旧ソ連の崩壊は、連邦各国の「歴史と文化」は、強大な軍事と共産主義を使ってでも「連邦は幻想」でしかなかったことを証明したのだ。米国も、歴史の浅い自由経済・民主主義の実験国家と見るべきであり、米国自身が歴史ある国々の知恵をもっと謙虚に学ぶ必要があるのではないか。
 東西冷戦が終結して何年が経つだろう。レポートは「冷戦終結後、欧州の対米依存低下、欧州統一の進展、第二次大戦世代の政界からの引退、イスラム系移民が急増する欧州の人口動態からみた事情など、欧米亀裂のさまざまな原因がイラク戦直前に最悪の状態に達したと…」と続き、「欧米対立を和らげる日本の役割はあるのか。両者の間を行き来する役はあっても、イラク問題では無理だ」と締めている。
 今回のサミットでも我が国の首相は、「米国に尻尾を振るポチ保守」の態度をとるのだろうと私は見ている。米国の盟友という日本…そのうち、欧州から「米国のポチ」と、白い目で見られるような気がする。


◆2004/06/07◆ フライフィッシングで感じる異常気象
 6日「関東甲信地方が梅雨入りしたとみられる」と気象庁が発表した。長野県内の梅雨入りは、昨年より4日早く、平年より2日早いという。近畿、東海地方も梅雨入りした。長野地方気象台のコメントでは、梅雨前線が本州の南岸に張り付く形で停滞し、向こう1週間は、曇りや雨のぐずついた天気が続くという。昨日と今日、雨が降っているが、その降り方は、例年のような「しっとり」でなく大粒の雨で、蒸し暑さがある夏のにわか雨のようだ。まさかと思うが、その1週間で梅雨が明けてしまうのではないか…。
 今年の季節の移り変わりは、非常に速いと思っていた。このホームページをUPした3月上旬から、フライフィッシングをするため近くを流れる神川の様子を見ていたが、雪解けによる増水や川虫と川の様子が10日から2週間ほど早いのである。ところが、平年の梅雨入りの日とそんなにぶれていない。信州に移住して8年目に入るが、これまでの梅雨時期は肌寒い日も多く、薪ストーブを焚いた年もある。しかし、今年の様子を見ると気温が高いまま梅雨に入ったという感じなのである。先程、雨が上がったと思ったら夏のような日差しで蒸し暑い。今、午前11時20分だが、標高900m近い我がアトリエの外気温は26℃を超えている。虫やカエルの鳴き声も、なんとなく夏っぽい。
 いくら温暖化といっても年間降雨量はそんなに上下しない。昨シーズンの冬、暖冬であったが、しっかり雪が降っていた。ということは、今年の梅雨は高温が続き夏空のような日もある空梅雨なのではないか…と思ってしまう。
 気象庁によると関東甲信地方の梅雨明けは、平年で7月20日ごろらしい。私が感じている今年の季節の移り変わりのスピードが正しいとすると、10日から2週間ほど早い梅雨明けとなるのではないか?すなわち7月上旬である。
 まあ、空梅雨で暑い夏になるのであれば、景気が回復基調にあるというから、夏商戦に活気が出て経済にいい材料を与えるかもしれないが…。
 川原で岩魚を釣りながら、今年の梅雨は"空梅雨"なのか、"雨が多い梅雨で冷夏"となるのか、観察していこうと思っている。


◆2004/06/02◆ 佐世保の小6同級生殺人事件…
 昨日、長崎県佐世保市の小学校で6年生女児が同級生に切られ、死亡するという痛ましい事件が起きた。本当に考えられない事件だが、ついにここまで来たか…という台詞が頭の中に浮かんだ。
 この事件が気になり、新聞やTVなどの報道をチェックしていたら、その中で、文部科学省の大臣の摩訶不思議なコメントに出合った。「心の教育再考を」と題した某新聞のインタビューに対するもので「本当に痛ましい事件で言葉を失っている。ご冥福を祈りたい。学校現場における凶器の取り扱いとか、人を傷つけてはいけないとか、命の教育、心の教育はどうあるべきかをもう一度考えていかなくてはならない」とあった。
 ふと…「心の教育」とは何ぞや。「凶器の取り扱い」といっても、カッターは紙を切る道具で、使う人によって凶器になるのだが…。「人を傷つけてはいけない」そんな当たり前なことまで学校で教えるのか?「命の教育」命って教育するものなのか?親が子を躾る根底にあるだろう。何か違うぞ…と、呟いてしまった。子供が凶悪事件を起こすたびに、似たようなことを聞くような気がする。
 家庭内での基本的な「躾」は、どうなっているのだろう。というよりも、「躾」という言葉が「死語」になっているような時代である。
 昨夜は、呑み仲間のH氏と酒宴を開いていたのだが、H氏も"考えられん"の一言だった。K氏が電話で酒宴に参入した。曰く「躾が死語といっても、躾と称して虐待する親がいるじゃないか」とくる。私の一言、「それは、躾がなんたるかを知らず、方法も分かっていない幼い親だ」と。やはり、「躾」は「死語」のようだ。


◆2004/05/28◆ イラクの武装集団は「イラク防衛軍」かも知れない…
 晩酌で「夜明け前」を味わっていたら、不覚にもうたた寝をしてしまい、明方の3時頃に目覚めてしまった。こうなりゃ神川で岩魚と遊ぼうか…と、少々、小難しい雑誌を読み頭を覚醒させる。ところで、某公共放送の24時間放送の体制がこの数年で整い、この4月から、ニュースが朝4時30分スタートになったのをご存知だろうか。刻一刻と白んでいく谷間の風景を確認しつつ、ニュースを見ていると5時半頃、イラクで邦人ジャーナリスト2名が襲撃されたと伝えたのだ。どうやら本当のようだ。
 また、イラク戦争について書かなければ…。
 この日記では、既に、イラク戦争がアメリカの侵略戦争であることは指摘した。その視点から見ると、いまだ我が国と国民はこの戦争を正しく認識していないと思う。
 イラクの反撃組織を、自らの国を守るために民が立ち上がった「イラク防衛軍」と考えれば、当然ながら、侵略してきたアメリカとその連合軍は「敵国」なのである。「戦争」というものは、攻めようが攻められようが「交戦」となれば、自国と敵国しかない。当たり前だが…。
 果たして、我が国の国民は、この認識があるのだろうか?
 例の拘束されたボランティア邦人3人の記者会見が数週間前あり、その後の邦人2名のうち1名(我が県の元S新聞社記者)が先日もインタビューされていた。が、「またイラクへ行く…」、「イラクを嫌いになれない…」と、「思い」を語っている。
 「思い」など戦場では何にもならない。彼らは、イラクへ亡命し「イラク防衛軍」に参加しない以上、所詮、敵国のスパイか従軍記者でしかないのである。
 TVメディアをチェックしているほうだが、この当たり前な理論があまりにも少なく、相変わらず、ずれた認識なのである。
 今、同時進行している北朝鮮拉致問題を見れば分かる。拉致された佐渡のSさんの米国人旦那さんJさんが、何故、出てこないのか。それは敵国に亡命したからだ。我が国の首相の訪朝に成果が少なかったのも、その昔、朝鮮戦争景気に沸き間接的に加担した我が国と、その現場でJさんが「亡命」していたということを忘れたからだ。
 いかん。こんなに怒っていると岩魚が警戒してしまう。今日は釣果が無いかもしれない。


◆2004/05/25◆ 初の10日間日記・最大のイベントは「信州休日の社寺巡り・諏訪ツアー」
 ここのところ、仕事がバタバタで10日ほど日記を書く余裕がなかった。どのような10日間を過ごしたのか、日を追って箇条書きにする。

16日●KURAに連載しているルポ「柳町にぎわい再生物語」で密着取材している天然酵母パンRの取材資料と写真整理。29日にRが仮オープンし、その後、毎週顔を出して東京からやってきた若き4人のスタッフを追っていた。気がつけば膨大な取材コメントと写真になっていて、次号掲載用の原稿を書く下準備。
17日●真田町振興公社が運営する地域活性化センターのパンフレット制作打ち合わせ。
KURA編集長I氏より7月15日号で上田柳町をひとまず締めたいとの連絡があり、その調整を各方面に取る。密着取材のルポだったため、バタバタ。
18日●KURA連載「アンティーク・ミュージアム」の執筆と撮影。今回は、上田の染屋地区で江戸後期から明治まで焼かれていた染屋焼の「すり鉢」を書く予定。すり鉢やこね鉢などの実用陶器は、日本の食文化や地域の食と密接に関係し、実に面白いのだ。どんなエッセーになるかお楽しみに。
19日●早朝から真田町振興公社の地域活性化センター・パンフレットの取材。担当のH氏とともに施設写真、味噌づくり、パン焼き、蕎麦打ちなどの体験の様子をカメラに収める。8年ぶりだろうか…久々に蕎麦打ちを体験する。いい蕎麦粉を使って二八蕎麦を打ち、試食する。
20日●5月7日に穂高駅で取材したKURA連載「駅前の鞄」の執筆。今回のテーマは、駅前そば屋を探す旅。偶然、入った駅前蕎麦屋のお母さんと駅前猫(野良猫)の温かい物語もある。この店の蕎麦は、若い娘さんが製粉から打つことまでしていると聞いてビックリしたが、風味高い美味い蕎麦だった。
21日●柳町のルポを協働している長野のフリーライターK氏から送られてきた次号原稿のリードを書き、写真セレクトなど編集。どうも筆のノリが悪い。
22日●早朝から長野市の書店・平安堂さんが開催する「カフェ・ゼミナール」のイベントで、「信州 休日の社寺巡り」の読者の皆さんとともに、諏訪の社寺巡り。カフェ・ゼミナールでは、第1回に取材裏話まで含めた「信州の社寺の魅力」と題した講演、第2回からは著者がご案内する社寺巡りツアーとして「松代社寺巡り」、第3回は「信州別所温泉」、そして、今回の第4回が「諏訪信仰ゆかりの古社と名刹巡り」。読者の皆さんと社寺を巡っているのだが、なかなか仄々としながらも連帯感が生まれたようで、大変ありがたく、いい感じのフィールドワークだった。読者の皆様と平安堂のスタッフに感謝。
23日●夕方から京都書院「ミニアチュール・マッチの世界」で出合った東京の出版社Aダイジェストの社長M山氏が、我がアトリエに泊まりに来る。そのため、朝から連載3本の原稿の仕上と写真データのデジタル現像の作業に没頭。夕方5時に上田駅でM山氏を出迎え、その足で、巨大で気持ちのいい露天風呂が人気の真田町にある日帰り温泉・地蔵温泉へ直行。温泉本を何冊も出版し、ご自身温泉好きのM山氏が地蔵温泉を絶賛。帰り道、美味しいとんかつで有名なレストランWに寄る。ここの主人は上田周辺と県漁協の大親分。フライフィッシングで岩魚と遊ぶ私は、この街に引っ越してきた7年ほど前に、この大親分と知り合った。実に筋の通った方で、以来ファンとなり、渓流魚放流のボランティアに参加させてもらった。この1、2年、忙しさにかまけてボランティアに参加できず申し訳ないと思っていたが、大親分のスカッとした笑顔の「いらっしゃい!」でホッとする。岩魚の塩焼き、天然行者ニンニクの天ぷらなど、タイミングが良かったようで、山菜尽くし料理に2人とも大満足。大親分も交え渓流魚や山菜の話で盛り上がる。結局、とんかつを食べずに仕上がってしまう。その後、閉店後のM島酒店に勝手口から上がり酒を入手し、アトリエで2次会。途中、町議会議員のS口光氏が行政視察で福岡に行ってきたとのことで、明太子の土産を持参し参入。
24日●午前中、M山氏と出版業界の話や今回の出張目的の「アフガニスタンのキリムと絨毯展」のメディア告知の打合せとなる。この展覧会は8年ほど前から、M山氏と奥様が進めているもので、戦争で傷ついたアフガニスタンの学校を支援している。アフガニスタンの学校の現状は、学校の井戸涸れで大変とのこと。最近のテーマは「学校に井戸を!」と題し、伝統の織物キリムと絨毯約100点、美しい民族衣装やアクセサリー、袋物なども合わせて約250点を展示即売し、その売り上げの10%を送るという。会場は上田市観光会館、期日は6月25日から29日までなので、皆さんどうぞご来場下さい。昼過ぎM山氏を上田市観光会館へお送りし、その後、長野の雑誌社・カントリープレスに連載の原稿と写真を入稿。その足でテレビ信州へ向かい「ゆうがたGet」のコメンテーターとして出演。

 そんなこんなで…10日間が過ぎていった。


◆2004/05/15◆ いきつけの酒屋
 夕方、手元にある酒が空いていることに気がつき、20時まで開店しているM酒店に、19時頃、顔を出した。これは確実に旨い酒だ、しかも安い…と確信して買った酒の話をすると、店主のM君はこの酒をまだ聞酒していないとのこと。聞酒もしていない酒を売っているのに驚きながらも…自信を持って買った酒。思わず、「じゃあ…一杯、聞くか!」との私の一言で、奥のオフィスに誘われた。
 久々のパターンである。
 15年前、大阪JR長居駅商店街の銀行のビルに事務所を出していた頃、同じような酒屋があった。当時、50歳ほどの店主だったが、こちらが無類の酒好きと分かったとたん、大阪のラテン乗りの付き合いとなり、珍しいバーボンやワインが入る度に、最高のハムとチーズ、パンで試飲(というより殆ど酒宴)を誘ったのだ。自宅のマンションは商店街の終わりにあり、事務所は商店街の入り口。たかだか300mの距離なのに、出勤と帰宅に3時間も掛かる。事務所スタッフが「また、酒屋に引っかかっている…!」と私を探しにやってくるが、ミイラ取りがミイラとなって、スタッフを含めた酒宴になる。
 不思議なもので、私が引っ越す町では必ずこんな酒屋と出会う。私に問題があるのかもしれない…が、実に、楽しくて面白い文化的な時間と思っている。
 話を戻すが、M君曰く「この店が呼んでませんでしたか?」。なんだろうなぁ〜カモにしたいのだろうな…「うぅん???」と答えると、試飲の酒が次々と出てくる。彼の話を聞くと、昨日、いろいろなサンプルが入ってきたから、その匂いを私が嗅ぎつけ来店したのでは…とくる。これは大笑い。だが、良く考えると一目置いているということになるので、大変、光栄である。
 M君の地元酒造業界での顔の広さには驚くが、彼がアドバイスなどで関わった造り酒屋のルーキーとなる酒たちが、目の前に並んだのだ。上田市のW林酒造の無濾過生酒は、私も野点珈琲をしたことがある真田町の渋沢の水を、M君のアドバイスで使っているようだ。佐久のT屋酒造店の無濾過生酒は2種類、小さな一合瓶に入っていたが、搾り方によっては将来性の高い酒だった。
 M君は今時の聞酒師だが、聞酒とは程遠い私の昔ながらのコメントが新鮮なのか、ますます盛り上がってしまった。


◆2004/05/11◆ 真田町臨時町議会傍聴「法廷合併協議会への移行」
 昼前、真田町臨時町議会を傍聴してきた。今日の議案は「法定合併協議会への移行」の決議で、この議案の可否はある意味で歴史的なものになると思い足を運んだのだ。
 ところで、全国からHPに訪れる方々に、我が町の合併の概要をお話ししておく。
 真田町を含むこの地域は、上田市を中心に丸子町(住民の一部が丸子町の南にある武石村・和田村・長門町と共に、丸子を中心とした新市を作るべき…と活動をしている。今後、2つの協議会に入る可能性が高いと思われる)、私が住んでいる真田町(群馬県境で他の町村と合併する選択肢はない。反対の場合、自律しかないのだ)、武石村(美ヶ原の北側になる村で、2つの任意合併協に入っている)の4市町村という枠組みで進められている。
 しかし、経緯を見ると分かるがナカナカ複雑骨折を起こしている。当初は、小県郡(チイサガタグン)の東部町(この町は郡境を越境し4月1日に北佐久郡の北御牧村と合併、東御市となった)、長門町と和田村(この町村は武石村と文化圏が同じため、住民と共に協働し武石村を含めた任意合併協議会をつい最近設立)、青木村(自律を決定。さまざまな施策を検討している)、西隣の郡にある坂城町(通学・通勤圏、商業圏は上田エリアだが、自律を検討)を合併させ、25万都市を目指すというものだった。
 話を臨時町議会の傍聴に戻す。討議では反対派のみの発言が続いた。反対派にも2派あるようだ。反対署名や住民投票条例の署名を展開した1派2名と、禍根が残らないよう十分に議論せよという時期尚早派1名だ。
 前者の質疑内容は、行政サイドが反対派署名活動の署名を精査した評価(生まれて間もない赤ん坊の名前や重複氏名などが多く信頼できないというもの)に感情的な反論、また、住民投票条例の可決が失敗したせいか…3月に実施した「町民意向アンケート」(2〜3%の差で賛成票が多かった…が、実際は二分した)に対し、重箱の隅を突っつくようなものが多く、要は、厳格な管理がないアンケートで信用できない…というものなど、聞いていてイヤになった。
 後者の禍根が残らないようしっかり議論せよという時期尚早派は、30代という若きS口光議員1人だけだ。が、ナカナカ筋の通ったものだった。まず、反対のための反対ではないという立場を表明し、その理論展開は、合併特例法の最終期限が一年延期したので、反対派にじっくり理解させるべき時間がある。さらに、3月議会の所信表明で町長が述べた「4市町村の枠組みの合併推進が王道」を引用し、武石村、丸子町が合併賛成に流動的であって、これも時期尚早の理由である…というものだった。
 反対派しか討議しなかったので、結果は決まっていると思っていたが、全15議席の内、賛成12、反対3の賛成多数で「法定合併協議会への移行」が可決された。
 さてさて、これから荒れそうである。この町はどうなるのだろうか…。


◆2004/05/08◆ 五月晴れ…松本城のお茶会に招待される
 明方、松本から帰ってきた。華道および茶道の家元K先生に招待され、国宝松本城黒門・本丸庭園において11日まで開催されている「野外いけばな展・緑陰茶席」に行ってきた。五月晴れの中、昼過ぎに松本城に着き、数年ぶりに本丸に入った。松本取材はちょくちょくあるが、城内に入ることは殆どない。
 いけばなは平和をテーマに、ヒノキとセンなどの巨大な丸太と生花コラボレーション。屋外のため初夏のような日差しは刻一刻と変化する輝きと影を投影し、五月の風が花に動きを与えていた。目の前で見るとダイナミックだが、城といけばなのツーショットは、緑の庭園に添えた可憐な野の花のようであった。木陰でK先生のお弟子さんが点てたお茶と日替わりの和菓子をいただき、Kとの語らいは充実したひと時だった。
 K先生は父の友人で、私は「酒の器…私の逸品」の取材時にお会いして以来のお付き合いである。この出版パーティーで、愛用の酒の器でこだわりの酒を楽しむイベントを開催したが、今ではK先生のご提案で、松本T温泉M神館のS社長のご協力を得て、伝統芸能と伝統工芸などを楽しみながら、最高の料理と温泉、お酒、文化的な語らい「Kサロン」という発展的な催しになっている。県内、各界の錚々たるメンバーで開かれ、若輩ながらも、その事務局の一員として参加している。
 この時期、K先生は引っ張りだこで、松本歯科大の花見、上高地の山開きなどで野外いけばなと茶席を開かれている。本来なら、必ず数回お会いするのだか、今年はスケジュールが合わず、失礼なことをしている…と反省していた。数日前、K先生から6月下旬に開催されるKサロンの事務局打ち合わせを7日に松本の懐石料亭・H扉であると連絡が入った。その時、私の心が見えたのか「日頃の行いが大切ですよ」とK先生に笑われてしまった。
 京都のサラリーマン時代、取材で何人かの家元とお会いした。どの家元も、厳しさの中から美を見出すという芸術家といっていい。K先生も、華とお茶で美を追求する芸術家であり、「道」を歩む自分に厳しい方。人の心と、精神的な姿勢を見抜いてしまう。中途半端な生き方や考え方を質してくれる。筋が通り、厳しくも感動を与える。
 私のような青二才にもお付き合いして下さる。最初お会いした時からすごい方だと思っていたが、気が付けば、K先生のファンになっていた。


◆2004/05/04◆ 中高年の写真ブームに物申す
 昨日、木曽の上松町にある駒ケ岳神社の太々(だいだい)神楽を取材してきた。昭和50年代に国の選択無形民俗文化財に指定された神楽で、湯立神楽を最初に奉納し、第一座の岩戸開舞から第十三座の六神行事まで、1日かけて奉納をするのである。
 駒ケ岳神社は、天文3年(1534)に禰宜大徳原長大夫春安が駒ケ岳山頂に保食大神と豊受大神を勧請し奥院を、また、山麓の徳原に里宮を建立したのが始まりという。この神社に奉納される太々神楽は、氏子の中で定められた農家の長男に申し送る一子相伝形式で、今日まで伝えられてきた。奉楽で舞うものと問答で舞う二つの形式で構成され、三剣の舞、四神五返拝などの舞は気迫あふれる迫力の舞である。
 裏参道から境内へ向かった。その参道では水晶が取れるらしく2組ほどの家族が地面に目を凝らしていた。女の子が「あった!」と喜んで、小さな六角形の水晶を手にした表情が生き生きしていた。大地から露出した水晶を見つけるなんて、いまどきの現代っ子には感動ものだろう。微笑ましいシーンを見送りながら進むと、森の中にポカッと光庭のような境内が出現した。素朴でありながらも風格のある社殿が現れた。奉納は9時から始まる。15分前にたどり着いた。
 さて、取材が楽しみと、相棒のライターK氏と拝殿に上がった。ところが、その瞬間、唖然とした。舞台にカブリつくように三脚とカメラが包囲していた。地元の人々は後ろから遠巻きにしている。何だ!この本末転倒な風景は。
 お神酒を呑んでいる背広姿の方(役場の人だろうと思い)に声をかけた。観光課の役人だったが、「何時から、アマチュアカメラマンがこんなの多いのか?」という私の問いかけに対し、「3年ほど前、名古屋の新聞社が開催した写真コンテストで、この神楽の第七座・四神五返拝を撮った作品が最優秀賞になった。アマチュアカメラマンの話題になり、それ以来この状況に…」との返事を、痛し痒しという表情で答えてくれた。
 アマチュアカメラマンが集まることは悪いことではない。が、問題は、地元住民が目に入っていない振る舞い…、自己中心的な目に余る行動。マナーが悪すぎる。「カメラマンで見えない!まわりに気を使っていない!」と住民の声が聞こえてくるのに、彼らの耳に届いていない。コンテスト用の良い写真を撮りたいと…集中し、一緒に来た仲間と写真オタクの話しかせず神楽の感想も話していない。驚いたことに60才前後のいいオジサンたちなのだ。薄暗い舞台でストロボ使うのに三脚が必要なのか?高性能なカメラと明るいズームレンズを使っているのに、カブリつかなくても撮れるではないか…なのである。
 一子相伝で古から伝えられた神楽は、地元住民と駒ケ岳にかかわる者が奉納し、守ってきたのである。だからこそ、我々が、今日、写真に収めることが出来るのだ。
 住民の「待ってました!頑張れよ!」という掛け声の世界と、被写体として最高の舞の瞬間を追うストロボの嵐はハリウッドスターの記者会見のようだ。この矛盾に満ちたアンバランスな光景が、目の前に展開した数時間…。
 写真を生業にしているが取材中の現場ではかなり気を使い周辺に配慮している。当たり前なことだ。あえて言わせてもらうが、カメラを持つ前に常識的なマナーが身についているか…自分に問うことからスタートしてもらいたい。
 本当に疲れた一日だった。



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