教科書にも登場する有名な古代コインである。デザインされた梟(ふくろう)に見覚えのある方もいるのではないか。このテトラ・ドラクマ銀貨は、紀元前440年頃に誕生した。
 30数年前、父が海外出張の折、カナダのモントリオールで買い求めたものだ。モントリオール市立美術館を訪ね、その時、周辺を散策し、アンティーク・ショップ街を見つけたという。陶磁器やオリエント美術、コインなど専門のアンティークショップが多く、古伊万里や刀など、掘り出し物があったという。無類の骨董好きの父にとって、天国のようなストリートだったに違いない。以前からこのコインをマークしていた父は、最後の寄港地、モントリオールで、長年の恋人と出会ってしまったのだ。
 現在、所有者は研究者として父の後を継いだ私の兄で、8年ほど前、四十歳という人生の節目で、記念として父から受け継いだ。私のようなノンジャンルのコレクターでなく、特定のものに興味を持ち、そのコレクションの形成には、学者肌の才能が許さないのか、緻密なものが感じられるのだ。
 ご覧のように、鋳造時のミスがなく、磨耗も少ない、なかなかの保存状態だ。少々、刻印がオフセンターになっているが、銀独特の渋みを纏(まと)い、彫刻された梟の表情のリアリティーを増幅させている。梟は女神・アテネの知恵や芸術のシンボルだ。オリーブの枝とともに、こちらを覗き見るようにレイアウトされている。面白いもので、梟は、古代ローマや古代中国では、不吉な鳥の象徴なのだ。アメリカインディアンは、危険を予知する予言者と崇拝し、学問成就や知恵を授けるといった象徴の鳥としている。表にはアッティカ式の兜をかぶった女神・アテネの横顔が大きく刻まれている。
 手に取るとズシリとし、2400年の時空を越えてきた、圧倒的な存在感が、皮膚を通して伝わってくる。少々、大げさな表現だったかもしれない。だが、古代ギリシャのオリジナルの品を、手に取ることが唯一可能なのが、このコインなのである。貨幣は、発行する国の、その時代の最高の芸術性と技術によって世に出されるものだ。古代ギリシャはヨーロッパ文明の源流であり、西洋芸術も、またここに源を求めることができる。すなわち、この小さなコインは、西洋芸術の源流そのものと言えるのではないだろうか。
 古代ギリシャの芸術に出会うには、ヨーロッパの博物館に足を運ぶしかないことは、皆さんもご存知のとおり。しかし、博物館に収蔵されていても、古代ギリシャのオリジナルは、非常に限られている。実際に、ミロのビーナスやサモトラケのニケなど、ほんの僅かしかないのだ。多くはローマの収奪やイスラムなどによって破壊され、失われている。今日、残るものは、ローマ時代のレプリカ(模刻)が殆どなのだ。
 古代ギリシャコインが最初に生まれたのは、小アジアの古代王国リディアだった。アッシリア帝国の崩壊の後、独立して建国。紀元前7世紀から6世紀に最盛したが、紀元前546年にペルシアによって滅ぼされる。既に流通していたコインは、周囲に伝播していく。伝播に拍車を掛けたのは、アレクサンドロス大王(紀元前356〜323)である。
 スペインからインドまで、広範囲に広がった古代ギリシャコイン。自分達の守り神や祖先神、また、土地の特産物などが、紀元前とは思えない匠の技で表されている。発行された国の文化そのものなのだ。
 世界で最高といわれる古代ギリシャコインのコレクションは、大英博物館にある。この雑文を頭の隅に入れておいていただければ、イギリス・ロンドンの旅が面白くなるかもしれない。

#015●古代ギリシャコイン「テトラ・ドラクマ銀貨」