「瀬戸・馬の目皿」である。骨董好きな人なら1枚は持っているのではないだろうか。代々、骨董好きの我が家では、父の代から数枚所有している。
 馬の目皿は、江戸後期(19世紀初)に庶民用の日用雑器として、瀬戸・洞地区を中心に生産された。この地区は、連房式登窯が五つあり、その何基かは瀬戸本来の陶器を焼く本業窯だった。他は磁器の窯、その他小さな窯が数多くあったという。間口数間、奥行1間の窯12、3室、上になる程大きくなっている巨大な共同窯では、窯に火が入っても上の窯ではまだ窯詰めの最中だったという。猫の手も借りたいほど忙しい現場の様子が伝わってくる。窯詰めを終わった窯屋から、職人の応援が繰り出されるなど日常茶飯事。1回の窯焚きに、職人1人の半年分の器が焼け、年数回の焼成は、大変な生産量を誇っていた。当時、石皿をはじめ、馬の目皿、油皿、刷毛目の徳利類、柳絵茶碗、染付碗皿、大碗、小碗、水がめ、擂鉢(すりばち)捏鉢(こねばち)類など生活に必要な焼きものは殆ど作っていたという。
 馬の目皿の祖父のような存在に石皿がある。8寸〜9寸ぐらいの重く厚い皿で、朝鮮の石鍋や石鉢から名づけられたのか、あるいは長石を材料にしたから「石皿」と呼んだのか、呼び名の由来は諸説ある。古くは元和4年(1618)の美濃太平文書に「石茶碗」「石焼き」と記されている。この時代のものは、絵皿の最も初期といわれ、鉄の黒と藍のアンサンブルがシンプルで味わい深い。素早くそして数多く作るという陶工の技が、いつの間にか枯淡の境地を偲ばせる非凡な芸を生み、美しい陶画の世界を築きあげたのだ。絵柄は、名古屋城が「柳城」と呼ばれていたからか、柳の絵が多く、花鳥、山水、人物、文字、絵解きや芝居の外題…あらゆるものをモチーフに、百花撩乱、文様の花を咲かせた。
 馬の目皿は、この石皿を簡素化させたものだ。石皿には反縁があるが、馬の目皿には何もない。石皿より製造単価が安く、幕末の頃には、馬の目皿は石皿を駆逐するほどであったという。ご覧のように、素地は柔らかく素朴な温かさがあり、日々使うのに耐えうる分厚い生地は、どっしりと重く迫力がある。淡白色の釉には、鉄絵具で馬の目のような渦巻き文様がシンプルに描かれている。
 昂揚したかのような馬の眼つきを髣髴させる渦巻きは、生き生きとして力強く、1枚1枚馬の目の表情が違う。一気呵成で滑らす筆が、職人の気迫を感じさせるのだ。「馬の目」は「雲間の目」がなまったのではないかという説もある。すなわち、雲の間に目のように渦巻いている風景を文様にしたというのだ。大きさは八寸から一尺と程よく、料理を選ばない。酒宴の料理を盛るのに最適な器だ。
 石皿や馬の目皿などの瀬戸絵皿の美しさは、民芸運動の創始者・柳宗悦によって書物や工芸雑誌、あるいは石皿の特別展覧会などで広く紹介された。彼は、「陶器の絵でこの位の美しさを持つものは、日本のやきものでは他に多くない。瀬戸でやかれたものの中で特筆大書すべきもの」と絶賛したという。以来、馬の目皿などの瀬戸絵皿は骨董好きの人々の必須アイテムとなった。
 確かに馬の目皿ほど「用の美」を体現しているものはない。柳が力説したことも頷ける。使うことに忠実に作られたものに、自ずと生ずる自然で暖かみのある美しさとは、職人の技の熟達が生み出したものだった。

#011●"用の美"を納得する一枚「瀬戸・馬の目皿」