ご覧のアンティークは、幕末期の「懸硯(かけすずり)」である。昭和48年頃、上田の古道具屋に格安で出ていたのだ。当時は、どの骨董屋や古道具屋にも置いてあったが、昭和50年代後半には見られなくなってしまった。
 懸硯は室町時代の末に誕生したといわれている。当初は、蒔絵などを施し贅沢に作られ、貴族の調度品だった。一辺が一尺五、六寸程の長方形の箱で、側面に方扉(かたとびら)がつき、中に抽斗(ひきだし)が三杯ほどあり、その一つが硯箱になっていた。上面に提手(さげて)が付き、持ち運びやすくしてある。「懸硯」という名は、持ち運ぶという意味の「懸け」から付いたとの説があり、ハンディな硯箱とでもいったところだろうか。
 江戸時代に入り商業活動が活発になると、硯や筆を使う人が多くなり、より実用的な改良がされ、一般に普及していった。この頃のものは、軽い桐板で組み上げられ、要所に、鉄金具が付いている。外観は簡単な漆塗り、もしくは木地のままで、素朴そのもの。硯を入れる抽斗のみ、汚れが目立たぬよう黒塗りされていた。
 西鶴の『好色五人女』の八百屋お七の話に、火事の様子の一説がある。「わやわやと火宅の門は車長持ひく者、葛籠(つづら)、懸硯、かたにかけてにぐるも有――」とあり、江戸の貞享年間(1684〜88)には、車長持・葛籠とともに、懸硯が家財道具の一つとして大切にされていたことがわかる。
 江戸中期を過ぎると、懸硯の姿がまた進化する。上段が硯箱で下に一、二段の抽斗がつき、硯箱の上面は一枚の蝶番(ちょうばん)式の平蓋がついたものになる。蓋には弾鋲(はじきびょう)という鍵と提手がつき、少々、小型になった。また、硯箱の上面蓋の横に金入れを設け、携帯金庫という機能ももつようになるのだ。
 江戸後期から幕末にかけ、商業の発達が一層進み複雑化すると、懸硯式の金庫では間に合わなくなっていく。帳面や金入れには、別に帳箱や銭箱が発達し、懸硯は初期の機能に戻っていく。金入れが付いたものは、小規模な商家で使われるようになる。
 ところで、懸硯は、海の上で別の発達を遂げたのをご存知だろうか。「船箪笥」という名を耳にした方もいらっしゃるだろう。船箪笥は骨董家具の中でも、人気が高いアイテムだ。実は、懸硯がこの船箪笥のルーツなのである。
 我が国では、戦国時代から海運が発達し、江戸期に海上物流のネットワークが確立する。いわゆる千石船は商船であり、海上マーケットの役割を果たしていた。懸硯は、海上商いの金庫として、片開戸の大型のものへと進化し、船箪笥が登場した。陸の懸硯は、機能を重視した素朴な意匠であったが、船箪笥は堅牢に作られ、金具も大型化し、次第に派手な意匠が施されていく。廻船問屋や一匹狼の船頭たちのステータスとして豪華になっていったのだ。
 ご覧のようにこの懸硯は、金入れのついた江戸後期の形そのものである。
 耐久性をもたせるため、木固めと呼ばれる漆の擦り込みが施されているが、時代を乗り越えてきた証のように、深い茜色に輝いている。
 下の抽斗の裏に、使用年と所有者の墨書きから、辛うじて幕末期とわかる。判読が不可能なほどの書き直しがあり、何人かのオーナーを渡り歩いてきたらしい。
 金入れの抽斗の鍵受けが無くなり、その右の引き手である鐶(かん)も無かったが、革紐で引き手を付け、小物入れとして使用している。上面の蓋箱といい、小さな抽斗は、机周りの小物収納にぴったりだ。
 重宝で場所をとらない懸硯。骨董屋で見かけることは少なくなったが、もし出合ったら、骨董家具入門として、手に入れてはどうだろうか。

#029●今日でも重宝な小型家具「懸硯」は
              船箪笥のルーツだった